「森美術館開館20周年記念展 私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために」から、思ったこと。(1)
セシリア・ヴィクーニャ「キープ・ギロク」。
5000年以上前のアンデス地方で使われていた、糸と結び目で伝えたいことを伝えるコミュニケーション方法を、作品に用いている。
自分の言いたいことを伝える手段。それは言葉だったり、音楽だったり、アートだったり。何かのサービスだったり、事業だったり、子育てだったり。その人によって、状況によって、さまざまだ。
私は言葉、文章という手段で表現することをずっとやってきた。もっとうまくできるように磨こうとしてきた。
それから、音楽という手段で表現することも、ずっと練習してきて、出産前にやっとほんの少しだけ、自分がコントロール権を握る感覚を掴んだ気がした。
表現するには、技みたいなものが必要なのだろうと思う。
デジタルの、技をあまり必要としない手段もあるのかもしれないけれど、デジタルでも大抵は、技が必要な気がする。
長年の修業の結果、私が少しだけ技を手にしている手段が、文章を書くことと、音楽だ。
でも、この先の人生、私が使う表現手段は、今までやってきて少し技を持っている手段、だけでいいのだろうか。想像すると、少し抵抗を感じる。他の手段での表現にも、挑戦してみたっていいのではないだろうか。例えばアートとか、写真とか、もしかしたら料理とか。5000年前の人が、糸と結び目で伝えたいことを表現したように、私の伝えたいことが、今までやってきたのとは別の形で、よりよく表現できるかもしれない。
それらの手段は技を持っていないから、人に見せられるような素晴らしい作品はできないかもしれない。
それでも、やってみたい気がする。もしかしたら自分にはまだ、可能性があるのかもしれない。ないかもしれないけど、それでも、いろいろやってみた方が、思い残すことが少なく死ねる気がする。
死、なんて思ってしまうのは、別の作品の影響だ。
松澤 宥「私の死」。
そのメッセージが不思議なほどすんなりと自分に入ってきた。作家の死を想像しながら、自分の死もそういうものかもしれないと考える。
死ぬんだ、私も、そのうち。それなら、今、どうする?
よくある言葉のようだけれど、それが実感を持って迫ってきたのは、アートの力があったからなのだろうと思う。
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