舞台 白蟻
【配信】2024.06.09 16:00公演(千秋楽)
※櫛本=平野良さん、勢堂=多和田任益さん
【感想】
Apple社が初代のiphoneを発売したのは2007年だという。
それから今年で17年。
今やスマートフォンを持っていない人を見つける方が難しいのではないかと思うほどに、スマートフォンは人間の生活の中に溶け込んでいる。
時計も、新聞も、ラジオも、ゲームも、読書も……何もかも、現在は私たちの手元にある手の平サイズの端末一台で済んでしまう。最近は買い物すらこれで済んでしまうのだから、全く便利なものである。
劇中で勢堂が叫ぶシーンがある。
「冷蔵庫だって、洗濯機だって……。使ってしまえばもうなかった頃には戻れない」
私たちはスマートフォンを手放すことができるだろうか。
きっともう、できないに違いない。
技術革新は私たちの生活をいつだって便利に、快適にしてくれる。そして私たちを依存させてしまうのだ。
この舞台はタイトルの通り「白蟻」と人間の話であった。
現代社会に、そして未来の社会に蔓延る白蟻――機械と人間の話である。
語るのは葬儀屋の息子であり取締役の勢堂直哉。
舞台は現代よりもAI=人工知能が人間の生活になじんだ世界――「ターマイト」という会社が開発した人工知能が世界中に革命をもたらした後の世界である。
ターマイト社を作り上げ、人工知能を開発したのは、害虫・害獣駆除業者の息子の櫛本悟。勢堂の高校時代の先輩であった。
「我々は生まれたときから、チェスのポーンのように前に進むことしか許されていない。しかし逆はどうか。時間を戻すことはできないのなら、進めることはできるのか。答えはイエスです」
ターマイト社が作り上げた人工知能を搭載したアンドロイドや人工臓器はたちまち世界に広まり、人間の生活を便利にした。現在のスマートフォンのようにその機械は忽ち「生活になくてはならない存在」となった。
朝はアンドロイドが人間を起こして朝食を作り、車を運転する。メールの返信もアンドロイドだ。病院に行けばアンドロイドの医者が手術をする――それが当たり前となった社会。
そんな社会でも変わらないのが「生と死」。そして、弔いである。
中心人物は櫛本、勢堂のほかに3人。
医者の息子で父親の病院を継ぐきょん。
寺の息子で家を継いだ新渡戸。
そして、12年前に亡くなった櫛本の妹・ミヨ。
物語は「ミヨの十三回忌法要を勢堂のセレモニーホールで」という櫛本の電話から動き出す。
法要の後にホールに残ったのは櫛本と勢堂、きょんと新渡戸。彼らは高校時代の生徒会でミヨも含めた5人で活動した面々であった。
医者のきょんが言う。
「俺が看取って、勢堂が焼き、新渡戸が弔う。そしてまた俺のところで生まれる。ここで輪廻転生が完結する」と。
生と死に関わるそれぞれの家業を継いだ3人とは違い、櫛本だけは家を継がなかった。しかし彼が「違う形で『害虫・害獣駆除』をしようとしていたこと」がこの舞台の後になって発覚する。
この宴会の席で櫛本が取り出したのが怪獣のぬいぐるみ。曰く「自伝を書けと言われたが、忙しくてそんな暇がない。だからこのぬいぐるみに人工知能を埋め込んで過去を学習させ、自伝を書かせようと思っている」とのこと。
「だから、こいつに俺たちの過去を聞かせてほしい」と。
アンドロイドはいくら人間の生活に溶け込んだとしても、所詮は機械である。壊れればそれは「死」ではなく「停止」であり、弔いはない。いく先は火葬炉ではなく産業廃棄物場である。
それが当たり前だった世界で勢堂葬儀に舞い込んだ一件の依頼。それは「長年連れ添ったが事故で壊れてしまったアンドロイドの葬式をしたい」という依頼であった。勢堂はその願いを叶えるべく奔走し、読経を新渡戸に依頼。恐らく世界で初めての「アンドロイドの葬式」を行った。それが忽ちのうちに拡散され、アンドロイドの葬儀が注目されるようになる。
そこに舞い込んだのは「ターマイト社」からの「今まで作ったアンドロイドたちの慰霊祭」の依頼であった。日時は2024年12月31日~翌2025年1月1日の午前3時まで。従業員からの「やろう」というひと言で決行が決まった。
準備を万端に整えて当日となったが、一向に誰も来ない。ターマイト社の人間も、弔われるべきアンドロイドも来ない。
「連絡はお前に一任していたはずだ。どうなっている」
自分のアンドロイドに勢堂が問いかけると「遺体はこれから歩いてここまでくる」という。果たして入ってきたのは、櫛本ミヨの姿をしたアンドロイドであった。
「私たちはいろいろなことができるけれど、抗えないものがあります。それは時間です。私たちの体内には時計があり、それは3桁まで――S99までしか数えられないようになっています。2025年はS100となり、そうなると私たちの時計はS00となってしまう。そのため、ターマイト社製のアンドロイドはすべて活動を停止することになります」
劇中で語られていくが、そもそも櫛本悟が人工知能について研究しようと思ったきっかけは妹のミヨが生まれつき心臓の病を抱えていたからであった。
移植を待つか、アメリカで開発された人工心臓を使うか。
移植を待つレシピエントは100名ほど。対して年間に供給される心臓は10件ほど。つまり平均10年は待つことになるという。
高校生1年生でその選択を迫られたミヨは、人工心臓を移植し、提供者が現れるまで待つことを選んだ。
櫛本は勢堂に高校を卒業したらアメリカに渡って人工知能について研究すると言った。
「ミヨにもっと高性能な人工心臓を作ってやる」
しかしその願いは叶わなかった。
優秀な成績を残しながら、櫛本は志半ばで帰国することとなる。ミヨの体調が芳しくないためだった。
機械の臓器を人間の身体が拒否している。
その反応により、ミヨは亡くなってしまった。
彼女が亡くなった際、櫛本は勢堂に「お前も触ってみろ」とミヨの心臓の辺りに触れさせた。
確かに身体は死んでいるのに、機械の心臓だけが空しく動き続けるその状態に勢堂は飛び退り、櫛本は叫んだ。
「こんな辱めが許されるものか!」と。
この時から、櫛本は間違いなく機械を憎んでいたのだろう。
自分たちの生活を便利にし、社会に蔓延っていく機械を心の底から憎んでいたのだろう。仕方のないことと思ってはいても、ミヨを救ってくれなかった機械を憎んでいたのだろう。
ではなぜ、櫛本はアンドロイドを作ったのか。
櫛本はそののちにアンドロイドの技術と「自伝のため」と称していた怪獣のぬいぐるみに内蔵したチップを使い、ミヨのアンドロイドを作っている。
過去を学習させ、姿形、しゃべり方もすべてミヨそっくりに作っても、それは櫛本が望む「ミヨ」ではなかった。
アンドロイドのミヨは言う。
「私がミヨになれなかったから」と。
しかし本当にそうだろうか。そもそも彼女は「ミヨ」になれただろうか。
それは不可能だろう。
櫛本はミヨの死を体感している。彼女がいなくなったことを知っている。いくら彼女に似せたアンドロイドを作ったところで、櫛本にとっての「本物のミヨ」にはなり得ないのである。
櫛本が作った「ターマイト」社。
ターマイトの意味は「白蟻」だ。
白蟻は家の木材を食べてしまう害虫であり、櫛本の家は白蟻駆除を生業としていた。
その白蟻を効率よく殺す方法。
それは「家を建て直すことだ」と櫛本は言う。
「家を崩して新たな家を建て直す。痛みを伴う方法だが、それが一番効率的に白蟻を駆除する方法である。それは社会も同じ。一度崩してしまえば、人はまた前に向かって進んでいく」
「僕は正しい。これ以上の正しさを、僕は今見つけることができない」
櫛本はそれをやってのけたのである。
「大切なものはすべてこの手で焼いてきた」
勢堂は言う。
一度目は母を。
二度目は初恋の相手であったミヨを。
自分はこの手で火葬炉へと運んだのだと。
そして明示的に語られることはなかったが、彼は櫛本も焼いたのだろう。
骨壺を持った彼が、高校の制服を着て一緒に歩く櫛本兄妹とすれ違ったのは、そういうことなのではないだろうか。
道具と舞台の使い方が非常にうまい舞台だった。
セットを動かすことなく椅子だけを持ってくるなど、本当にうまい作り方。小道具が多かったのではないだろうか。見せ方で「なるほどそういう使い方をするか」と思ったところがいくつもあった。
脚本に関しては好き嫌いが分かれるとは思うが、私は好きだった。今回観たのは櫛本=平野さん、勢堂=多和田さんの回だったがぜひ逆も観たい。
人間の尊厳とは何か。
アンドロイドと人間の違いは何か。
弔いとは何か。
いろいろなことを考えさせられる舞台だった。
人間の社会に蔓延ってどんどん広がっていく機械を「白蟻」にたとえるというのもおもしろい発想だと思った。PCができてから、スマートフォンができてから、私たちは確かに考えることをしなくなった。自分で手書きをするときに愕然とする。漢字が出てこない。スマートフォンなら、PCなら打てるのに。使っていたはずの文字すら書けなくなっているのだ。けれど私たちはその変化に普段は気が付かない。
広く見れば「白蟻」が食べる家は社会なのだろう。
けれど小さく見れば、家は私たちひとりひとりなのではないだろうか。
今の社会で私たちは、機械がなければ生活することすらままならない。けれど時々振り返って見なければいけないのかもしれない。立ち止まる必要があるのかもしれない。そして、家の軒下を確認するように、自分を見つめ直さなければいけないのではないだろうか。