月の缶詰2
日常の上弦
「ちょっと太った?」
「美晴は本当に失礼がすぎる。僕は太ったんやないの、大きくなったんよ。月は日が経つに連れて満月に近づくの知らんの?空見てみ?」
月は知らぬ間に私の名前を呼び捨てにするようになっていたし、私は私で彼の形がこんなに大きくなるまで気が付かないほど、彼は私の生活に馴染んでいた。
「もうすぐ上弦やけんね。」
「上弦?」
「ざっくり言うと半月のことやね。この前までが三日月、今が上弦、次が満月、その次が下弦、もっかい三日月が終わったらまた新月。その頃には美晴ともお別れやね。」
月が今から寂しいなあと呟く。
彼がずっとそばにいてくれるものだと何の根拠もなく思っていた私は、別れと言う単語に動揺した。
彼の存在はわたしの「日常」に完全に溶け込んでいて、じゃあねと簡単に言えないほどには情が移ってしまっていたことに気がついてしまった。
「お別れ?」
「そうよ。僕は次の月候補やって言うたやろ。次の新月の時には空に戻るんよ。月になれるかどうかはまだ分からんけど。」
「月になれなくても戻っちゃうの?」
「月候補はみんな戻る。月になれてもなれんくても。」
「月になれなかった子はどうするの?」
「どうもせんよ。宙を漂うだけやね。」
「次の世代交代のときはどうするの?」
「月候補になるチャンスは1回だけなんよ。なれんかったらそこでおしまいなん。」
「そっか・・・。」
「なに、美晴。寂しいん?」
「はい?そんなわけないでしょ。」
「強がっちゃって〜。美晴はかわいいな。」
彼の声はいつも朗らかで柔らかい。
その形が大きくなるにつれて、彼の声は少しずつ大人び始めているように感じられた。
「寂しがらんくても大丈夫よ。月になっても僕は美晴のこと見守っとるけんね。」
折り返し地点の満月
「美晴、見てや!満月になれた!」
やっぱり真っ暗な駅から家に帰ると、とうとう球体になった月が嬉しそうにコロコロと転がっていた。
月候補たちにとっては満月になれることが、第一関門なのだそうだ。
だいたいは円にはなれてもどこか欠けていたりして完璧な球体にはなれないらしい。
無事に満月を迎えて喜ぶ彼を見て、私は彼の成長を喜ぶと同時に、別れへのカウントダウンが始まったことを知った。
キュッと痛んだ胸に素知らぬふりをして、揶揄うような表情を作る。
「もう。はしゃいでそこから落ちたら欠けちゃうよ。」
彼の定位置となったドレッサーの下には、彼が万が一、落ちても大丈夫なように実は座布団を敷き詰めている。
それを知ってか知らずか、彼は余裕そうに笑う。
「そんなドジせんから大丈夫。美晴やないんやけん。」
「失礼なことばっかり言う。」
「やけど、ついこないだも爪先にスマホ落っことして悶えてたやん。」
「見てたの?でもそれはたまたまよ。」
「え〜。その前は何にもないところでつまづいてたん見たよ?」
「うるさい。」
「そのまた前はあったかくして寝んといけんよって言うたのにお風呂上がりにおへそ出して寝て風邪ひいてたな。まだまだあるけど聞きたいん?」
「本当に口の減らない月ね。」
出会った時は幼い子どものようだった月の声は、低く深みを増して、気がつけば完全に大人の声に変わっていた。
缶に出会った新月のあの日が彼の生まれた日なのであれば、私の方が圧倒的に歳上のはずなのに、彼の心はずいぶん大人になっていて、優しい彼は私のことを揶揄いつつもいつも心配してくれる。
「美晴もな。まあ、ドジでもいいんやけど、体調には気をつけんといけんよ。」
曖昧な下弦
美晴の暮らしているところがどんなところか見たいと言うので、休日の昼間、私は月と散歩に出かけた。
「いいところなんやね。」
感慨深げに言う月を手のひらに乗せて、ゆっくりと駅前を歩く。
こんなにのんびりとこの町を歩くのは、祖母と買い物に出かけて以来だと気づいた。
買い物と言っても、小さな商店に卵と牛乳を買いに行っただけなのだけれど。
祖母に合わせてゆっくりと歩いたこの道は、見える建物も、木々も、何一つ変わっていない。
意図的に思い出さないように気をつけていた家族のことを思い出しても、切なくはなるけれど、思ったほどは胸は疼かなかった。
そばにいてくれる者がいるからだろうか。
「何にもないけどね。」
「まあお店とかは少なくてつまらんのんかもしれんけど、緑もいっぱいやし、空気が綺麗やけん、空がよう見えるやん。月になった僕のこともよう見えると思うよ。たぶん僕からも美晴のこと見えるな。」
さらりと放たれる未来の話に言葉に詰まる。
今度はじくりと胸が痛んだ。
月の形は半円になっていて、今がちょうど下弦の頃だと推測できた。
次の新月まではもう1週間ほどしかない。
少し俯いて歩いていると、向かいからすごいスピードで競走する少年たちの自転車が走ってきた。
俯いていたせいで少し気付くのが遅れた。
上手く避けられず、よろける。
なんとか踏ん張って転ばずには済んだものの、手に乗せていた月を放り出してしまった。
ガシャン。
足元のアスファルトとぶつかる嫌な音がする。
「ごめん、大丈夫?」
慌ててしゃがみ込み、問いかける。
「そんなに慌てんくても大丈夫よ。」
拾い上げると、丸みを帯びていた部分が小さく、それでもはっきりと欠けてしまっていた。
「欠けちゃってる!どうしよう、ごめん。ほんとにごめん。どうしよう。」
半泣きになって地面に這いつくばり、欠片を探す。
誰かに見られていたら石に喋りかけながら、地面を漁る頭のおかしい人に見えただろうが、それはどうでもいい。
満月になれたときの、月のあの喜びようが頭に浮かんでさらに焦る。
「欠片、どこ?ない、ない。」
「美晴。落ち着いてや、美晴。」
「あ、あった!これだけかな。ちょっとごめんね。」
探し当てた欠片を月にあててみる。
不幸中の幸いで、欠片は砕けたりせず、形を留めたままでいてくれたらしい。
「欠けた部分って接着剤とかでくっつけてもいいものなの?ほんとにごめんね。」
「美晴、落ち着いて。僕の声聞こえてる?」
「そんな悠長なこと言ってないで、どうしたらいいのか教えて。」
「・・・欠けたらくっつけてももうだめなんよ。そんなことより、美晴は怪我せんかったん?」
「そんなことじゃないわよ!くっつけたらだめなの?じゃあ、どうしよう。何か方法・・・。」
「美晴は怪我してないん?」
「そんなこと後で・・・。」
「そんなことやないけん。怪我してないんかちゃんと答えて。」
いつもは柔らかい月の声が少し鋭くなった。
そのことに驚いて、慌ただしく動かしていた手の動きを止め、叱られた子どものように小さく答える。
「・・・私はちょっと擦りむいただけ。」
「そしたらよかった。帰ってちゃんと消毒しときいよ。」
いつもの彼の声に戻ったことに安心して、恐る恐る尋ねる。
「・・・怒ってないの?」
「怒ってないし、自分でもびっくりするくらい落ち込んでもない。美晴が大きな怪我せんでよかったなって思ったくらいよ。」
「・・・満月のときあんなに綺麗な丸になったの喜んでたのに?」
「そうやなあ。あのときは確かに嬉しかったんやけど、今日は美晴に怪我がない方が嬉しいけんねえ。欠けてたら絶対月になれんってわけでもないしな。形があるものは崩れる日も来るやろ。」
やけん、あんまり気にせんでいいんよと優しい声で優しいことを言う彼は、私が知る者の中で1番に優しい。
そんな彼と、毎日、おはようとおやすみを言い合う。
愚痴を聞いてくれて、背中を押してくれたり、慰めたり、必要な時には叱ってくれる。
軽口を叩き合って、くだらない話をする。
ひと月にも満たない間一緒にいただけなのに、独りには慣れていたはずなのに、彼がいなくなったら泣くだろうと自分でも分かっていた。
私は彼をどう思っているのか。
これからどうしたいのか。
遠くない未来にやって来てしまう別れの日までによく考えた方がいい気もしたし、自分の心に気が付かないように曖昧なままにしておいた方がいい気もした。
もしもこの気持ちや関係に名前が付いてしまったら、喪失感が耐えられないほどに大きなものになりそうだから。