本の海のYとZ
町立図書館の最奥、少し古びた本の香りがする本棚の間が私のお気に入りの居場所だった。
小さな窓から差し込む陽の光は舞う小さな埃をきらきらと光らせ、並んだ本が人の気配をかき消して、けれども静けさの中に聴こえてくる誰かが紙を捲る微かな音は孤独を感じさせず、眼前に開いた本は私をここではないどこかへ誘ってくれる。
陽に温められた床に座り込んで文字の先に広がる物語を見つめていた視界の端に一瞬影が差し、この心地いい静けさを壊さぬよう服が擦れる音にすら気を遣った気配が、深く沈み込んでいた私の意識をほんの少し浮上させる。
今ではすっかり馴染んだその気配が隣に溶け込むのを感じながら、私はまた物語の世界に潜り込んだ。
あとがきまで読み終えた本を閉じて視線を上げると、窓から差し込む光はずいぶん低くなっていた。
伸びきった足元の影を眺めながら、静かに隣人の意識が戻ってくるのを待つ。
どちらかが本を読んでいるときには、言葉も視線も交わすことなく、目の前の本に没頭し、お互いの読書を邪魔しないことが私たちの暗黙のルールだ。
そうではなかったのは彼と出会った最初だけ。
「ここ、いい?」
静かな世界を壊さぬように、最大限に配慮された遠慮がちな声だった。
顔を上げると、見知った顔がこちらを見ている。
友人と呼ぶには心もとないものの、私たちはこの利用者の多くない図書館の常連で、風景の一部としておそらくお互いの存在は認識していた。
私が知っている彼は、いつも蛍光灯の真下の机に陣取り、私には到底理解できそうもない数学の本を読み込み、時には手元のノートに何かを楽しそうに書き綴っている、別の世界の人で、そんな彼に話しかけられた理由に心当たりはなく、なんだろうかと戸惑って見つめていると、困ったようにまた口が開かれた。
「後ろの棚の本を取りたいんだけど、いい?」
「あ、ごめんなさい。」
慌てて場所を空ける。
彼はすらりとした指で目当ての本を抜き取ると、邪魔しちゃってごめんねとまた柔らかい声で言った。
「いいえ。」
「ここ、いい場所だね。」
「・・・はい。」
「いつもここにいるよね。」
「はい。」
「机と椅子がある場所も、もっと日当たりの良い場所もあるのになんでここなのかなって思ってたんだけど、きみがここを選ぶ理由がわかった気がする。」
僕もここで過ごしてみていい?
そう言って、いきなり私の隣に座り込み、手にしたばかりの数学の本を熟読し始めた彼に、私は呆然とただその横顔を見つめることしかできなかった。
そのまましばらく固まっていたけれど、集中しきった彼には私の困惑は届かず、私は小さなため息とともにこの状況を受け入れ、開きっぱなしだった本に目を落とす。
私の静かでひとりの世界に、突然侵入してきた彼のことを変な人だと思いつつも、不思議と心地よさすら感じている私がいた。
あれからもう半年も経つのかと懐かしく思いながら視線を動かすと、ちょうど手元の本を読み終えたらしい彼と目が合った。
「帰ろっか。」
そう言う彼に頷いて立ち上がる。
図書館からの帰り道を二人並んで歩くこともいつしか恒例のこととなっていた。
「今日はどこに行ってたの?」
帰り道の私たちの話題は私が読み終えたばかりの本のことだ。
彼は読書を冒険に行くみたいだと私が言ったことを覚えていて、いつもこう聞いてくれる。
私の本の話ばかりなのは、彼が読む本に書かれた円周率のその先や未だ解き明かされていない数列のロマンの話は私には難しすぎて、私が彼にする問いかけもそれに対する彼の返事も全てが頓珍漢になり、お互いのためにならなかったからだ。
私たちの本の趣味は違いすぎて、だからこそ彼は普段自分では読まない本の話をいつも興味深そうに聞いてくれる。
「海。」
「最近多いね。海好きなの?」
「うーん。好きというか、私......目を閉じて、深海にいる想像をすると落ち着くんだ。」
変だと思うかもしれないけどと、目を伏せて小さく付け足してみたけれど、彼は穏やかに返事をくれた。
「わかるよ。図書館のYとZの間でしょ。あのシンとした感じ、僕も落ち着く。」
「そうなの!だからあの場所が好きなの、すごく。」
分かってもらえたことが嬉しくて少し早口になる。
そんな私を目を細めて見る彼が続けて言う。
「僕はあの場所にいるとy軸とz軸の座標がゼロになる気がするんだ。だから、僕もあの場所が好きだし、すごく落ち着く。」
「y軸とz軸?」
「うん。数学とかに出てくる空間ベクトル、えっとグラフみたいなやつ。」
「YとZだから?」
「そう。YとZって聞くと、僕の頭にはあれが思い浮かぶ。」
「本当に数学が好きだね。」
「面白いからね。」
「ね、ゼロになるってどういうこと?」
「起伏がなくて穏やかってこと。あとは対等って感じかな。」
「ふーん。穏やかは分かる気がするけどさ、対等はどういうことなの?」
「想いの大きさとか深さとかの釣り合いが取れてるってことかな。好きなものへの気持ちはお互いが対等じゃないと上手くいかないし、長続きもしない気がする。例えば、僕は数学が好きだけど、僕だけじゃなくて数学の方にも好かれて初めて、答えが出るまで向き合えると思うんだよね。好きだから解けない問題に挑戦し続けることができるし、好かれているから答えが近づいてきてくれる。過去の数学者と呼ばれる人たちもそうだったんだと思うよ。」
「分かったような、分かんないような。」
「説明が難しいな。うーんと、例えば恋人がいたとして、僕よりも相手の気持ちが大きかったり深かったりすると貰う気持ちが多いからy軸とz軸の座標はプラス地点になる。逆のときは差し出す気持ちが多くなるからマイナスになる。こんな風にどちらかに寄っているとバランスが悪いと思わない?」
「それはそうかも。」
「バランスの悪い気持ちはさ、長続きせずにいつか崩れる気がしてさ。だから僕はゼロが一番いいと思ってるし、落ち着くんだよ。」
「それはなんとなく分かる気がする。けどさ、x軸とy軸じゃダメなの?」
「僕の中ではね。x軸とy軸だけだと平面になっちゃうし、空間の場合は僕のx軸は時間軸のイメージだから。x軸が時間を表すとすると、y軸は想いの深い浅い、z軸は感情の大きい小さいを表す感じ。」
「ん?z軸が奥行きだから深い浅いはz軸じゃないの?」
「数学の世界では右手系だからね。」
それは全然意味分かんないと少し不貞腐れてみせると、つまり好きの気持ちは同じがいいよねってことだよと彼は可笑しげに笑う。
結局、数学の難しい話は分からなかったけれど、彼の考え方も穏やかな口調も好きだなと思った。
あとは、数学の話になるといつもより饒舌になるところも。
よく分からない話を真剣に、そしていつまでも聞いてしまうくらいには。
いつか伝えられるだろうか。
きみは私の深海で、きみのそばがとても落ち着くんだと。
そして、君と私の気持ちがy軸とz軸のゼロ座標にあればいいなと思っていることを。
本の海にあるYとZは、私に静けさと冒険と仄かな恋を連れてきた。
このお話は、ミムコさまの妄想レビューをお借りして書いたものです。
この「図書館のYとZ」という言葉にかつて通い詰めた地元の図書館が思い出され、とても懐かしい気持ちになりました。
そして、YとZと聞くとつい数学が思い浮かんだので、今回は男の子の方のYとZは空間ベクトルのお話に。
でも、よく考え・・・なくても私は文系の出身で、空間ベクトル習ってなかった!と慌ててインターネットのお力を借りつつ、「yがどっちだ?」「z軸が問答無用で奥行きじゃないの?どういうこと?」と頭を(物理的にも)捻りながら書きました。
そんなんだったら数学ではないものを選べばいいのでは?と自分でも思いましたが、超絶文系出身のくせに、数学が好きで、すぱーんと答えが出る因数分解がもう愛していると言っても過言じゃないくらい好んでいたなと若かりし頃が思い出され、どうしても諦めきれませんでした。
数学等に見識のあるみなさまにおかれましては、私の珍妙な誤答にどうか見ないふりしてください。
何卒お願い申し上げます。