見出し画像

月の缶詰1

はじまりじゃない朔

空には闇だけが浮かんでいる。
裏には広々と田んぼが広がるだけの駅の周辺は何もなく、改札機と券売機、点滅する信号機、そして申し訳程度についた街灯だけが光源である。
田舎の朔の夜は音を吸収して、本当に静かで真っ暗だ。
ちなみにここがどのくらい田舎かというと、22時には閉まってしまうあまりコンビニエンスじゃない最寄りのコンビニまで自動車がないと辿り着けず、それでもコンビニができたと住民が浮かれるくらい。
日本には自宅の前に住民の名前がついたバス停ができる土地もあると聞くから、それに比べるとまだまだだけれど。
そんな場所であるから、この駅の利用客は信じられないほどに少なく、駅員もいない。
主人を失って久しい駅員室は、私が知る限りもう何年もその用をなしておらず、利用者の待合スペースだったと思しき場所には、古ぼけた木のベンチが2つ壁に沿わせて置かれている。

この土地で、かつては祖父母が主人だった家に独り暮らす私は、高校を卒業してもう二年。
つい先日、成人となったばかりだ。
社会人となった今は忙しくて帰宅が遅くなることもあるわけで、本当はもっと便利なところに住んだ方が楽だと頭では分かっているけれど、もう十年以上も生活した、唯一家族の思い出が遺る家にしがみつき続けている。
独りに慣れてきたとはいえ、いちいち家族の顔が思い浮かぶ家で寂しさに耐える夜もある。
けれど、ここじゃないどこかで暮らす自分はまだ想像もできない。

始まりの三日月

いつものように暗い駅を出ようとしたとき、待合スペースのベンチにフルーツ缶のような缶詰がぽつんと置いてあるのが目に入った。
少し古びた銀の缶はベンチのど真ん中に置かれていて、誰かの忘れ物とも思えない。
日に焼けたラベルには「月」という文字と、黄色の円だけが描かれている。
近寄って手に取ってみる。
あまりの軽さに驚いた。
軽く振ってみるが、なんの音もしない。
開けてみたいけれど、缶切りがないと開けられないタイプの缶だ。
一週間、誰も持ち主が現れないようだったら開けてみよう。
また、ベンチの真ん中に缶を置き、いつものように夜道を家に帰った。

それから一週間。
今日も同じ場所に缶はあった。
毎日、そこに缶があるかどうか確かめ続ける自分におかしくなるくらい、見慣れた場所に見慣れぬ物があるという久しぶりの非日常を私は楽しんでいた。
ほんの少しの怖さを感じつつも好奇心は尽きず、もしも持ち主が見つかって持ち帰られていたらさぞかしがっかりしただろう。

高鳴る胸に逆らうことなく、缶詰を持ち上げるとコンと中で何かがぶつかる小さな音がした。
びくりとする。
一週間前はなんの音もしなかったのに。
家まで待ちきれずその場にしゃがみ込んで、スマートフォンの明かりを頼りに100円均一ショップで買ったばかりの缶切りでキコキコと蓋を開けていく。
パカっと蓋を上げ缶を傾けると、小指くらいの小さな石が転がり出てきた。
平たいお皿のような不思議な形だ。

「なんだ、石か。」

拍子抜けした。
それもそうだ。
本物の月など入っている訳がないし、月と書かれた缶に何が入っていたとしてもきっと満足はしないだろう。
缶詰にコロリと石を戻して、この缶どうしようかなあと立ち上がった。

「どこ行くん。」

こもった幼い声が聞こえた。
急いで周りを確認する。
誰もいない。
空耳かと思ったらまた聞こえてきた。

「置いていかんといてな?」
「だれ?」

周囲を警戒する。
恐怖で足を震わせながらも、いつでも振り回せるように鞄を握りしめる。
書類を詰め込んだ鞄はなかなかに重く、十分に武器になりそうだった。

「月やけど。」
「は?」
「やけん、月やって。」
「は?」
「月!お姉ちゃん、耳の調子悪いん?」

何回聞いても、足元の方から、「月」と聞こえてくる。
恐る恐るベンチの上の缶を覗き込むと、やはり声は缶の中から発されていた。

「なあなあ、ここから出してくれん?」
「・・・石が喋ってる。」
「失礼な。石やなくて月やってば。」

呆然としつつも、缶をひっくり返して、もう一度石を取り出す。

「ちょっと!乱暴にせんとってや。せっかく形ができたのに欠けたらどうしてくれるん。」
「形ができた?」
「そうよ。先週は新月やったけん形は無かったんよ。お姉ちゃん、缶振ってたけど音はせんかったやろ?」

確かにこの前は何も入ってなかった。

「詳しいことはまた説明するけん、早よ帰ろうや。遅くなるよ?」
「あ、うん。じゃあお疲れ様です。お先に失礼します。」

石相手ということを忘れ、反射で社会人の型通りの挨拶をして立ち去ろうとする。

「ちょ、ちょ、待ってや。置いてかんとってって。連れて帰ってよ。」
「あなたを?」
「そう、僕を。寂しいやろ、こんなところに置いてけぼりにされたら。」
「うちはペット飼うような余裕は・・・。」
「本当に失礼やなあ。ペットて。僕は月なんやから、犬や猫と一緒にせんとって。」
「でも・・・。」
「大丈夫。僕はご飯もいらんし、このサイズなら場所も取らんやろ。お金もスペースもいらん省エネ設計やし、安心して連れて帰って。」

妙な説得力があった。
確かに食費もかかりそうにないし、置き場所に困ることもなさそうだ。
石と喋っているおかしさも、石の言っていることのあやしさも、非日常どころかあまりに非現実的な出来事のせいで何もかもよく分からなくなって、結局その日私は、この石、もとい、月(自称)を連れ帰った。
次の日の朝、「おはよう。今日はお仕事行かんでいいん?」という幼い声に起こされ、なんとか遅刻を免れたことで、非現実的な非日常が、日常に侵食してきたことを知った。

月との奇妙な同居生活が始まって数日、本当に手もお金もかからない月に出て行ってほしいと思うこともなく、むしろ一人寂しい家で、久しぶりの喋り相手ができたと内心喜んでいた。
話を聞く限り、彼はどうやら生まれたての次の月候補らしい。
月候補たちは、満月を経て新月を迎えるまで誰かのそばで育ち、最後に選ばれた者が次代の月となるのだそうだ。
だいたいの候補たちは動植物などの自然の中で育ち、私のような人間のそばで育つのは稀らしい。
缶詰に入ってたら、自然の中では外に出られなくない?と聞くと、ちょっと僕には何言ってるか分からんと幼く惚けられた。
その辺は深く聞いてはいけないらしい。
世代交代は5年に1度。
次の新月が世代交代のその日なのだそうだ。
ちなみに、今代の月はカリスマというやつで、歴代の月の中でも特に人気があるらしく、私の手元にやってきた月にとっては憧れの存在だという。
私には以前の月との違いが分からないと言うと、鈍過ぎるんやないのとバカにされた。