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現代野球にある数字偏重主義の流れから脱したい

球春明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
私はメジャーリーグも、日本のプロ野球も大好きです。
以前、義兄に「君は野球界全体が好きだよね」と言ってもらいました。
なるほど、そうだったのか。
色んなチームの個性溢れるスター達が各地で魅力溢れるプレーをする。
しかもシーズン中はほぼ毎日あります。そりゃオフが寂しくなりますよね。

そんな中、最近は様々な数字を駆使して全ての選手がデータ化されたり、
自分のプレー向上のためデータ化したり。目標数値を決めて、そこに自分を合わせて行くという事がよくあるらしい。最近よく聞くドライブライン(なんか動作の全てを数値化して、投げる球の軌道やスウィングなどを修正?する施設らしい)は、わかりやすい例です。メジャーリーグからの強い流れが、
日本野球にも来ていると感じます。

ただ、ちょっと待って欲しい。違和感を感じる。
ホームランを打つには1+1=2状態でいいの?
正解って、もともとある訳ではないし、自分も周りも予想できないまだ見ぬ先へ向かうには、数字ベースになってしまうの?
いつだって1+1の答えは無限大じゃない?
そもそも足すの?引くの?掛けても割ってもいいんじゃない?
ということで、数字偏重主義から脱する試みをしたいと思います。


数字はいつだって相対的

数字はいつも比較のなかにあります。極端に言ってしまえば、例えばこのボールより何キロ速いから160kmね!という感じ。あの人より遅くこんなスピードで、バットを出してる。この打者はあっちの方向の打球が飛びやすいから、今いる位置より3歩下がる。
勝つための球速、スウィング、シフト。
これは勝つための本当の原因になっているのか?
確かに一球が大事、一カウント、一アウトが大事。
でも上記の例で書いたことは、その選手の本質には何ら迫っていない。
このボールを投げた、そしたら結果160kmだったという事に過ぎない。
どんな心身から繰り出されたからこの結果を生み出したのか、その過程や原因がわからないままになっている。
そう、比較だけでは、「本質」には触れられない。


絶対的な野球選手とは

自分への探究心を、日常から抱いている人のことだと思う。
他人の結果よりも、自分がその出来事に対してどんな態度でいたのか。
さっき述べた「本質」って、じゃあ何だと言えば、
身の周りで今起きている事に対する自分の態度や感情への理解のことを言いたい。

嫌なことがあった、じゃあ何で嫌だと思ったのか。
こんな事を言われてムカついた!なぜムカついたのか。
それを考えてみると、自分が大事にしていることが何なのかに気づく。
嬉しかった。何で嬉しいのか?この人のこういう所を、私は好きだと感じているから。
感情を無いものにしようとせず、感情とは出来事に対する「私」の理解の仕方だと捉えれば、捨てていい感情なんかないはず。

自分がなぜこの球種をここで投げる時に、モヤモヤするのか。
ヒットはヒットなのに、なぜ満足感がないのか。
感情はいつでも自分について、知るヒントになるはず。
イチローさんが「僕は(前の打席が悪くても)開き直らない」と言っていたことを思い出す。
自分の感情は自分の身体にしか起きないことだから、その感情を理解しに行けば、もっともっとオリジナルの、誰も真似できない自分が発生していくのではないだろうか。


じゃあ数字を無視するか?

恐らく野球の歴史が長いゆえの弊害として、過去の栄光が眩しいコーチが、頭ごなしに上達方法を押し付けることがあると思う。
一つだけのやり方を提示して、こうやれば行けるんだと思う人は多いのかも知れない現状がある。それが本当にそうと言えるのか、科学の力を使えばその鼻を明かすことだってできる。
でもこういう、対立的なやり取りをするのはチームとしての不協和音が過ぎるので避けたい。

じゃあ、どうするか?何ら手がかりがないなら、数字は取っ掛かりとして良いかもしれない。勝ち筋の本質ではないけれど、勝つ手段のひとつに数字やデータを操ることは使える。
でもそのスライダーや、速いスウィングスピードという結果を生み出してるのは人間だ。その結果を生み出す原因に、目を向けなくてはいけない。
結果はいつも偶然だ。でもその偶然を確定させたのは、その原因だ。
自分と対象との違いを理解するために、自分を徹底的に理解する。
そうすることで自分が原因であることを自覚して、結果を生み出して行くことに繋がると思う。
(そこまで自分を理解する努力ができるなら、他者との比較なんて当てにならないことがわかるかも?)


憧れること

私の憧れはオリックス中嶋監督とドアラさんです。
お二方の様子を見て、結果だけ真似しようとしても、誰もうまく行かないでしょう。
それは、2人(1人と一体?)について何も知らないから。
2人に共通点がほとんどありません。
でもひとつだけ私が考える共通点は、台風の目そのものであるということ。名誉や結果だけを求めようとはせず、自分の仕事や生活の過程において、
考えることを突き詰めてきた2人なのだと思います。(勝手なこと言ってすみません!)
それは誰も真似できない、オリジナルのものです。
憧れても、2人に私はなれない。だから自分を知りたいと思う。
自分が今何を感じて、どうしたいのか。そんな厳しいストイックなものではなくて、プリンを食べると身体に沁みて本当に幸せを感じるのは、今日頑張ったからだとか。この人にこれほど褒めてもらえて嬉しいのは、私がこの人を好きだからだとか。そういうことです。だからご褒美にプリンを食べるし、またあの人に自ら会いにいく。


自分を理解すること

「目の前の人が怒りながら話していた。」
この時、幾つか辿る思考があると思う。私が思いつくものとしては2つ。

①この人、もしかしたら怒りやすい人かも。攻撃的になっちゃうんだろうな。
②今、私すごく怖がっている。どうして怖いんだろう。

どっちが正しいかは無いと思う。でも私は②を選びます。
①のように、推測して断定して自分が理解しやすい形に解釈するのは、
自分を守るためであると思う。
一方で、①に相手への本当の理解があるかと言ったら、首を傾げる。
これは相手へのあくまで憶測だから。また、①は自分の過去の記憶にいる人々との比較だから、自分と相手の関係を今目の前にある現実からある程度シャットアウトすることになる。

②には、相手へ向かう目線はほぼ無い。自分の感情や態度が生まれた理由に着目している。私は意識的に②を繰り返す内に、自分への気づきを増やしたり深めたりすることが多くなった。
②は反対に今の自分について考えるなかで、相手を考えることにもなる。
自分にこの感情をもたらしたこの人の何が嫌だったんだろう、と。
相手と自分の関係を、自分を起点に考えることでシャットアウトするどころか深めていける。
この目線があると、野球では投手のことも打者のこともより深い目線で感じられる、考えられるようになるのではないだろうか。(無理矢理すぎる?笑 でもそう思う。)


野球が好きだから

私は野球が好きです。画一的ではない、色んな野球を見てみたい。
好きなチームがいて、好きな選手がいる。
好きな選手の活躍は少しでも長く見たい。だって元気になるから。

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