日記 -権威性のある言葉-
哲学・神学などの識者の言葉を良く目にするのだが、まぁ、普通の記事であっても然りなのだけど、
自身の想いや思考のやり取りなどの過程を言葉に置き換えていく作業の中で、その想いや行為のニュアンスに適した言葉でありのまま表現している識者と、自身の中で形づくり、芸術性を含ませ、自身独自の言葉を作っているパターンのふた通りの識者を見かける。(識者でなくとも)
前者の文章は、哲学書に多く見られ、思考内容がややこしく、その人独自の思考過程があるだけで、真理構造は自分と同じだと理解出来るが、
後者は自身の芸術性に権威性をも含ませるツァラトゥストラの中に登場する魔術師である。言葉に美しさを持たせたいのか妙に曖昧で、意味する所も本質もはっきりしない。なんだかふわふわと外縁を漂っているだけのように思うのだ。
後者の文章が素晴らしいと思うのは、難しい言い回しや漢字、独特な文体の難易度に尊厳を見出してしまい、文章の美しさに騙されているだけだと感じる。
大抵、そういった文章に中身も本質もないし、大したことは言っておらず、構造もあやふやで、私は気持ち悪くなってしまう。
何を言っているかわからない、権威性のある言葉の羅列される文章には査読が必要だが、もうそろそろ面倒なので、誰であれ法界内に入れるのはやめることにした。
ニーチェは前者も後者もどちらでも自在に操れる詩人であり哲学者である作家だと思う。
自身の確保したい尊厳、権威性とは、承認欲求であり幻想だ。精神性は低いとみなす。
以上
追記
みなす…って誰だよ笑
対他(対自)、対峙相手によって色んな自分が出てくる。コーヒー日記を書いてる自分と確実に異なる。まぁいっか。。
自分ていうものにはな、様々な過去の自分がおってな、その因果関係の相手によって飛び出てくる自分が違うのじゃ。