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日記(中庸とは)


幼い頃より、私は、

善の行いは見ていても歯が浮くし、
悪の行いはイタく感じていた。

謙遜は他者への媚び諂いで、
上から目線は、権威と権力による圧迫。

私はそれらを出来る限り無視した。
周囲は騒ついていたが出来る限り横目でみていた。

今思えばそれは、
土俵の場を同じくしたくなかった。
世界線を同じくしたくなかったのだと思う。

上に見たり下に見たり、
上に出たり下に出たりが嫌だった。

フツーが中庸だと、その頃は勘違いしていた。

故に、供儀の的になったことは、リアルな対人関係に於いて一度もない。

攻撃はあった。勿論怒りも覚えるが、
それとわかったその時から対象の人物を視界にいれず、無視をしてきた。
何ヶ月か経つと、私の視界や世界線から、その人は居なくなっていった。

それらも数えられる程しかないが、
そんな知恵をいつしか学んでいた。


私には元々、自分というものがなかった気がする。周囲のものがそれで良いのなら全てを受け入れていたし、自分の意見や意思というものもなかった。


しかし、フツーは中庸ではない。

それを教えてくれるのはカラダだった。

一般的にいわれる普通は、夢を追い求める者。齷齪セッセと働き、疲れたら週末にカラダ癒す。という普通。

中庸ではないからカラダは苦痛や苦悩に見舞われるのだ。

中庸とは真理と真実を追い求めるもの。
夢を追い求めていた(いる)という、真実に気づけば中庸に寄っていく。

きのこ派か、たけのこ派か、私は「どっちも好き」というのは中庸とは少し異なる。

きのこ派だけど、たけのこ派の方が多いよね、たけのことの味の違いはなんだろう、たけのこ派の人は甘いクッキーの食感が好きなんだね。どっちの好みもあっていいね。というのが中庸である。

・苦悩とは、たけのこ派の方が多く自身は虐げられているという虚妄による不安。

・苦痛とは、虚妄の不安による自身の弱い部位への刺激。

苦悩、苦痛があるということは、精神的、身体的に弱い部分があるということなのだ。

不安にさせている要素をなくせば、それらはなくなり、精神も中庸に寄っていけば、不安になることも少なくなっていく。

無意識のうちに私にはそれらの構造が、
幼い頃からわかっていたのだと思う。

また、助けるということも私はしなかった。
非情だと思われるかもしれないが、

助けると、渦中に飛び込んで、外野を増やすだけか、若しくはその場を鎮圧させることが出来ても、目の届かない所で、それは繰り返される

助ける優しさは、相手の成熟度合いにより、考慮し、調整する必要がある。

闇雲な支援は、相手の自立を妨げ、自身の傲慢さを加速させることになる。


また、何がいいたいのか、取り留めない記事になりそうなのでこの辺でやめておこうと思う、




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