義父の不器用な生き方☆彡
6月26日は義父の命日でした。
去年三回忌だったから、今年で丸三年・・
義父が亡くなってから、35日で義母は後を追うように亡くなりました。
二人については、去年以下の記事を書いています。
今回は、時代にも影響しているであろう義父母の生き方について考えてみたいと思います。
長い記事となりましたが、お付き合いいただけると幸いです☆彡
不器用すぎる義父の生き方
義父は、商売をしていたこともあり、住んでいた地域の中では、さまざまな役職に付いていました。
区長、民生委員、職業訓練校の指導者、ラジオ体操の役職、歩こう会の役職、お祭りの役職、などなど
地域の活動に熱心で、多くの方に頼られていました。
地域の旅行などには、積極的に参加して、宴会でも楽しく飲み、義父を慕う人がたくさんいました。
そのため、葬儀の出席者はとても多く、びっくりしたほどです。
そんな義父でしたが、
私にとって、義父は、どちらかと言うと苦手な存在でした。
義父は、外の顔と、うちの顔が違う人に見えました。
外で、頑張っている分、家では、お酒を飲むとき以外は、ほとんど何も話さず、感情表現をすることもとても少なかったのです。
たとえば、義父の誕生日や、父の日などに、プレゼントを持っていくと、
「ありがとね」とはいうものの、そのプレゼントを開いてみて喜ぶ、という姿はありませんでした。
そんな時、義母が
「ほら、おとうさん、あけてみたら?」と言うと、包装を開きますが、
開いても、嬉しい表情を見せることは、ほとんどありませんでした。
義父母や夫の兄弟家族で、旅行にいっても、楽しそうな表情を見せることもなく、義母や家族に合わせて歩くことも少ないのです。
夫や、夫の兄弟も、義母を慕っていましたが、義父に対しては、そっけない、そんな雰囲気があったので、
夫や兄弟に聞いてみましたが、夫や兄弟も、義父が苦手なようでした。
特に夫と義兄は、義父のもとで働いていたせいもあったのか(夫は、途中で独立しましたが)、仕事の上では義父が「社長」であったため、厳しい指導も受けていたようです。
義父は、お弟子さんたちがたくさんいましたが、そこでも、お弟子さんに見せる態度と、夫や義兄に見せる態度が違っていたようなのです。
もちろん、跡継ぎなどの問題もあったり、お弟子さんは、次第に独立していくので、子ども達には期待もあって厳しかったのかもしれませんが、
親が社長であり、雇用されて給料も親からもらう。。
そんな関係は、色々難しいことは想像できます。
でも、それを除いて考えたとしても、
なぜ、義父が、外の顔とうちの顔が違うのか・・
そこには、義父の生い立ちや、その後の生き方も絡んでいる様な気がするのです。
義父の生い立ち
義父は、義父が生まれた時に、その出産が原因で、母親が亡くなったそうです。
乳飲み子の義父は、知り合いに「もらい乳」をしていたようです。
子ども達も多かったため、義父の父は、すぐに再婚。
そして、すぐに義父にとって、腹の違う「弟」が生まれました。
そんな生い立ちのため、義父は「愛されて育つ」という経験がとても少なかったようです。
家族での繋がりの薄さ
義父は、若くして、家を出て、ある棟梁の家に住み込みで弟子入りをします。
頑張って働き、認められ、棟梁から勧められて、棟梁の娘である義母と結婚したのです。
結婚してから、しばらくして独立しますが、義母に対して、初めは遠慮の気持ちもあったのかもしれません。
とはいえ、私が義父母を知った時には、義母に遠慮している感じなど全くなく、むしろ「亭主関白」で、義母のことを「飯炊き女」と冗談で言うくらいでした。
仕事に対しては一生懸命、地域の活動も一生懸命な義父は、家族に対しては、どのように接したら良いのかわからない、という感じで、愛情を示す、という姿はなかったようです。
家族を作るという形も、わが子への愛情の示し方も、自分自身が経験がないため、わからなかったのかもしれません。
なので、人間関係で知っている関係
ー棟梁と弟子の関係や、ご飯を作ってくれる人、との関係ー
でしか、人との繋がり方がわからず、家族という関係の作り方がわからなかったのかもしれません。
また、時代もそうだったのかもしれませんが、
「家族で誕生会をする」とか、「プレゼントを渡し合う」とかはなく、また「家族でお出かけをする」ことも、夫の家庭では、ほとんどなかったようです。
仕事人間、家族には関心を示さない、そんな義父でした。
仕事や地域の活動は、頑張った分だけ報酬も名誉も得ることができます。
でも家の中では、ただの夫であり、ただの父親なのです。
さらに、夫の兄弟が、男の子だけの三兄弟だったこともあり、もし、一人でも女の子がいれば、兄弟と義父を繋げるのも出来たのかもしれませんが、さっぱりとした関係のまま、夫も義弟も家を離れたのでした。
(これは、男の子の兄弟だけだと、全てがそうなるという意味ではありません。義父母のような場合、女の子がいれば、と思っただけですので、ご理解ください)
夫や義弟が結婚してから、その妻(私や義妹)が、
誕生日にプレゼントをしたり、父の日にプレゼントをしたりし始めましたが、
プレゼントをもらう経験も、初めてのことだったようです。
私も嫁であり、形の上では、娘にもなったわけですが、懐に飛び込むなとはできなかったです。
与えられる喜び、子どもが成長する喜び、それを分かち合う家族や夫婦生活が、希薄だったような気がします。
義母は、義父に従っているように振る舞っていましたが、時に義父への言葉がキツいこともあり、また私には義父への不満をよく言っていて、お互いが語りあったり、楽しいことを共有してこなかったのだろうなと思っていました。
義母も、積み重なっていた思いを対話をする努力をしたり、家族が繋がるような役割ができていたら、とも思います。
そして、義父の過去を受け止め思いやったり、義母自身が温かい家族を作る努力をしていたら、夫婦・家族関係は違っていたかもしれません。
家族関係は、互いに努力し合って作り上げるものです。
でもある意味、その時代の夫婦・家族関係は同じようなケースは多かったのだとも思います。
愛情がないわけではなかった!
私は、義父が「愛情がないわけではなかった」と思っています。
いや、むしろ、「愛情の示し方」が分からず、寂しかったのかもしれないと思うのです。
そもそも、家族に対しての「愛情=溢れる思い」のようなものが、自覚できなかったのかもしれません。
「大好きだ、愛している、君が大事」
言葉で伝えるなど、ありえないと思う時代に生まれた人・・
愛情の表現の仕方がわからない不器用な人・・
子育ては義母任せ、子ども達を
抱きしめる、とか、可愛がる、とか、一緒に何かをして遊ぶ、などは一切してこなかった。
それは、自分が経験もしていないし、その時代は、そういうことが大事だという情報も無かったのだと思います。
だから、孫である私たちの子どもに対しても、抱くとか笑顔を向けるということはほとんどありませんでした。
でも、孫が大きくなって家を出て、一人暮らしを始めて、なかなか帰省せず会えないときが続くと、
「Sはどうしてる?」
「Uは元気にしてるかい?」
と聞いてくるのです。
義父は不器用な人だったのだと思います。
男の人はいまでも、「男」というプライドが邪魔をして、不器用に振る舞ってしまう場合もあるかもしれません。
でも、私は知っているのです。
それら一つ一つが、義父の出来る「愛情表現」だったのです。
義父自身も、それが「愛情表現」なんて思っていなかったかもしれません。
義父の姿を見て「喜びや愛情表現が不器用だな」と思うことが何度もありました。
それが出来たほうが、本当は本人だって幸せだったはずです。
それが出来なかった義父を思うと、私は今でも切なくなります。
夫や義兄、義弟に伝えたいと思いますが、なかなか機会も無く、受けてきた傷(勝手に思い込んでしまった傷も含めて)もあるので、伝わりづらい・・
だから、これからも少しずつ、義父がなぜそんな生き方しかできなかったのか、を残された夫や兄弟に伝えていきたいと思っています。
多分、夫や兄弟や、義母は
「愛してほしかった」のです。
「大切にされていると感じたかった」のです。
だから、それを受けられなかった、感じられなかったから、苦手だったり、嫌いだと感じる意識になっているのだと、私は思います。
そして、多分義父もみんなに「愛してほしかった」のではないかと思うのです。義父だって、孤独だったかもしれません。
このように書いてきていますが、決して家族が仲たがいをしていたとか、仲が悪かったとかは全くなく、むしろ、夫の家族も、その時代の普通の一般的な家庭だったと思っています。
そうせざるを得なかった生い立ちや時代を思う
先日、上京した時、感じたことがありました。
それは、自転車にわが子を乗せて移動している「若いパパ」が多いこと。
ママの割合より、パパの割合が多かったように思います。
土曜日だったせいもあるかもしれませんが、父と公園で遊んだり、親子で自転車に乗って移動したりする姿を見て、
今の時代は、
それが当たり前の時代です。
でも、義父母の時代、特に、「棟梁」として働き、義母も子ども達も従業員の立場の家族は(義母は、形式上従業員の立場でしたが、基本専業主婦でした)、夫が家族を守っていく、夫が主(あるじ)という考え方、「食わせてやっている」という思想が大きかったのだと思います。
また、家族に頼るのではなく、自分が頑張らなければ、弱みは見せてはいけないと、頑張り続けていたのかもしれません。
私の父母は、二人とも教師でしたから「共働き」であり、教員として、上下の関係がなかったし、収入の面でもあまり違いがなかったので、夫の家族とは違う雰囲気がありました。
家族の中で温かい交わりや繋がりがあるなかで、私は育てられました。
時代だけではなく、働き方だったり、仕事の内容だったり、でも違うのでしょう。
まして、「愛情を感じられずに育った」義父、「家族の雰囲気を体感してこなかった」義父、そんな生い立ちが重なっているのだと思うのです。
最期は義母も感謝をしていた
義父が亡くなり、小さくなって家に帰ってきたとき、
義母は何度も何度も
「おとうさんのあの大きな手が、こんなに小さくなっちゃったね」
「この手で、私達家族を守ってきてくれたんだね」
「お父さん、ありがとう」
と言って泣いていました。
そして、義父が亡くなってから、35日という早さで、あっという間に義父を追いかけて亡くなりました。
お互いに
「愛されたい」
「あなたが大切」
と思いながら、もしかしたら、その思いさえも感じず、
それを態度や言葉に出せなかった2人。
今頃、天国で、大切な思いを伝えあっていたらいいなあと空を見るたびに思います。
だから私は言いたいのです❗
「愛されてなかった」
と思う前に、
親や家族(夫や妻)の時代背景や、親や家族(夫や妻)が育ってきた生い立ちや、家族を作るまでに培ってきた人間関係があること、
まずは、それを受け止め、時に、話を聞き、そうせざるを得なかった事柄を受け入れ認めて、赦すことができたら、
そして、素直に「私はあなたに愛されたかったんです」と伝えることができたら、
言葉でも、態度でも、人生の最期に
「本当は愛していると伝えたかった」
と後悔しないように、
生きている今、
伝え合えたらと思うのです。
「人間関係の再構築」は、誰でも気がついたときからでも間に合います。
別れは突然やってくるかもしれません。
だから、「人間関係の再構築」は、早いほうが良いのです。
生まれてからの家族・兄弟姉妹との関係、結婚してからの夫婦や子どもとの関係
その関係を思い返し、話したいことは話し合い、語り合いたいことは語りあい、最後は赦し合えたら、
私は全ての人がそんなふうになってほしいと願っています。
もちろん、どうしてもできない場合もあるでしょう。
どうしても、許せない場合もあるかもしれない。
それであっても、自分を責めなくていいのです。
しっかり縁を切る、という選択も残されています。
ただ、これだけは覚えていてほしい。
母は、命を賭けてあなたを産み落としました。
父は、男として、家族のために、と背負ってきたものもありました。
十分ではなかったかもしれないけど、今生きているのは、10か月お腹の中で育てて懸命に出産したから、そして、誰かがあなたを育ててくれたから。
あなたを見て、笑顔を向けて、可愛いなって絶対何度も何度も思ったことと思います。
家族のために、辛くても頑張って働いてきたことと思います。
生まれて、今生きているのは、奇跡にも近い素晴らしいことです。
それだけは感謝してほしい。
「縁を切る」といっても、必要な手続きをしなければ、
あなたと親や兄弟との関係は、法律上、扶養義務があり、
誰かが何かあれば、引き取り義務や、相続の問題は続きます。
これらのことは、今後また記事にしたいと思います。
今日は義父母を思い出しながら、今の私の問題意識について書いてみました。
生きているときは、義父が苦手でした。
でも、家族との関係や亡くなったあとに続く「人生の終わりの準備」の大切さを考えさせられたのも、
義父母のおかげだと思っています。
とても長くなりましたが、
最後までお付き合いいただき、
ありがとうございました
m(__)m
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