見出し画像

【第15回】『ランビエの絞輪』〈管理栄養士・宇田川 舞が解く栄養ミステリー〉


第15回『ランビエの絞輪』第二章 アポトーシス 1

 殺人の第一発見者となった舞は、翌朝六時に目覚めた。早朝のニュース番組では、昨日の浮浪者殺人は、報道されなかった。舞はリンゴを齧りながら、テレビを消した。
 今朝も食欲がなかった。ウォーキングをスキップしたこともある。だが、冷蔵庫の食材を見ても、弁当を作る気になれなかった。まだ七時前だった。いつもは七時に家を出る。舞が住むマンションから芦屋医大までは、マウンテン・バイクで三十分ほどだ。
 昨日の殺害現場を見るため、早めに家を出ることにした。
 舞は、マウンテン・バイクで夙川沿いを走った。今日は遊歩道ではなく、車道だ。
 遠目に、巨大な染井吉野が視野に入る。葉桜でも貫禄がある大木だが、哀し気に見えた。黄色い現場保存テープは、まだ貼り巡らされたままだ。交代で見張りをしているのか、制服姿の警察官が大木の前に立っていた。遊歩道も「立入禁止」のアーチ看板が立っていた。
 舞は速度を落として、ゆっくりと現場を通り過ぎた。二百メートルほど進むと引き返し、芦屋医大の方角に進んだ。逆方向から臨む殺害現場は、視界が悪く、見えにくかった。前方に注意を払いながら、何度も殺害現場の方角に顔を向けた。
 舞が現場の様子に気を取られている間に、一台のタクシーが通り過ぎた。
 
 朝の日常業務を終えると、舞は九時半に優子の研究室を訪ねた。
 優子は八時ごろに出勤する。十時の回診前まで学生のレポートや論文の添削をしている。だが、その日は、いつもと様子が違った。
 舞が優子の研究室に入ると、ぼんやりと窓の外を見ていた。机上の書類トレイには、レポートが山積みになっている。書類トレイのラベルは、『添削済み』だ。一仕事を終えての休息だろうか。優子の色白の肌が、窓際の陽光で一段と透き通って見えた。
 優子が舞の顔を見て、口角を上げる。
「今日の夕方、西宮署に出頭するのでしょう?」
「事情聴取ではありますが、逆に被疑者の情報をできる限り聞き出そうと思っています」
 優子が腕を組み、左耳を少し傾ける。優子はどんな話でも表情を変えない。だが、興味のある話題の場合、腕を組む習性があった。
「今日の午前中、錦城先生が被疑者の精神鑑定をするそうよ」
 舞は一瞬、顔を顰めた。舞の表情を察したのか、優子が続ける。
「芦屋医大で博士号を取るなら、錦城先生に嫌われないようにね。精神鑑定は少なくとも半年は掛かるだろうし。精神科の教授会で議論もされるから、徐々に詳細は、わかるわよ」
「留置所での食生活や、犯行前の食生活も聴き出せますか?」
 と舞が訪ねると、優子は頷きながら微笑んだ。
「錦城先生は患者の食行動を、私たちとは別の観点で考えているわ。精神疾患者特有の、奇怪な趣向の一つとしてね。それでも、いいわよ。その話をヒントに、神経への影響を考察すれば、いいのよ」
 舞は何度も首肯する。
「錦城先生には、第一発見者の情報が、伝わるのでしょうね」
「そうなるでしょうね。第一発見者の証言も重要だからね」
「第一発見者を強みにしたら、後日、錦城先生に質問できますか?」
 優子が「うーん」と首を傾げ、「状況次第ね」と、答えた。
 優子は、半ば呆れる様子で静かに微笑んだ。舞は優子の判断を、肯定と受け取った。

(つづく)

▼ 連載各話はこちら

マガジン「ミステリー小説『ランビエの絞輪』」に各話をまとめていきますので、更新をお楽しみに!

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集