【第11回】『ランビエの絞輪』〈管理栄養士・宇田川 舞が解く栄養ミステリー〉
第11回『ランビエの絞輪』第一章 食行動と殺意 6
栄養部の壁時計が、三時四十五分になった。舞は長い髪を結わえ直し、ノートPCを持って立ち上がった。
十六時から八号館三階の会議室で、合同カンファレンスがある。毎週木曜日が定例だ。
栄養部は、L字型に建っている一号館の離れにある。《一号館付属棟》と呼ばれ、給食センターになっている。三階が栄養部のオフィスだ。
舞の席も栄養部にあるが、デスクワーク以外は、ほとんど八号館の精神科病棟にいる。一号館付属棟の三階と八号館の三階は、渡り廊下で繋がっているため、移動も便利だ。
舞が渡り廊下を歩いていると、優子の後ろ姿が視界に入った。 舞が会議室に続く廊下に差し掛かると、突き当りで優子がスマホを耳に当てていた。後ろ姿のため、表情はわからない。普段は姿勢の良い優子だが、両肩が下がり気味だ。舞には優子の後ろ姿が、どことなく寂し気に映った。
舞が会議室に入ると、十名ほどが既に着席していた。合同カンファレンスには、精神科医の他に、研修医や大学院生、看護師、理学療法士、臨床検査技師、言語聴覚士、薬剤師などが参加する。管理栄養士は舞の他、栄養部長も出席する。
十五時五十五分になると、ほとんどの出席者が着席した。
医局長の錦城は、いつも勿体付けているのか、二分か三分は遅れて着席する。だが、この日は、十六時前に着席していた。機嫌が良いようにも見えた。
錦城と優子は、出席者と向かい合って、雛壇に着席する。
最前列には、錦城のイエスマンと呼ばれている辛嶋哲司が着席。五十六歳の教授だ。いつも司会を買って出ている。
最前列の優子側の席には、角倉武が着席。三十八歳の精神科医で、中国で漢方医の資格も得ている。漢方薬を有効的に使うため、患者の薬物依存を抑え、完治率が高いという評判だ。だが、錦城派の医師たちからは、「患者のリピーター率が悪い」と異端児扱いされていた。
角倉は、芦屋医大の正式な勤務医であるが、大学での立場は講師のままだった。優子や舞が推進する栄養療法にも、賛同してくれている。荒垣とは大学の同級で、舞も頼りにしている存在だ。
北島楓の姿もあった。楓は三十一歳の薬剤師で、薬学博士を目指している。芦屋医大の大学院では、医学部と薬学部の共同科目もあるため、舞は、何度か楓と顔を合わせる機会があった。楓は薬剤師の職務として、主に精神科の処方薬を担当している。薬物治療は、錦城派の医師たちと密に連携を取るため、舞と楓はお互いに、話し辛いと感じていた。
楓は合同カンファレンスで、錦城派の医師たちに、同意を求められる度に、舞の顔をチラリと見てから話し出す。その様子から、楓は、薬漬けの治療に疑問を持っている、と舞は推測していた。
事実、楓が講師室の角倉に、よく質問している姿を見掛けた。対処療法の薬物よりも、根本治療の漢方薬なら、身体にさほど負担は掛けない。表向きは錦城のほぼ言いなりだ。だが、楓と腹を割って話せば、相通じるものがあると感じていた。
舞の隣には栄養部長の吉田小絵がいる。五十八歳のベテラン管理栄養士だ。芦屋医大の入院食全般の責任者となる。精神科の合同カンファレンスをはじめ、各医局のカンファレンスにも出席している。
小絵は、糖尿病や肥満、高血圧など、生活習慣病の治療食のスペシャリストだ。だが、精神病患者の治療食には知識がなかった。小絵の努力不足ではなく、日本の『臨床栄養学』のカリキュラムには元々、精神疾患の項目が存在しない。
舞が「精神疾患の治療食も確立するべきだ」と言い出した時は、随分と小絵を困らせた。だが、小絵も「習っていないから、知らない」で済ますタイプではなかった。精神科病棟の食事内容や、患者の食事パターンなどを分析するようになった。今では、舞の良き理解者の一人である。
正面の壁時計が四時を指すと、辛嶋が立ち上がった。全体を見渡してから、意気揚々と口を開く。芦屋医大と井田製薬が共同開発した新薬が、厚生労働省から正式に認可されたらしい。詳細は錦城の口から説明された。
錦城が立ち上がって、右横に設置された教卓の前まで歩く。辛嶋は素早く、前方エリアを消灯する。正面の白壁に、プロジェクターの光が映し出された。
優子は、左側の最前列の席に移った。
錦城がノートPCを操作すると、白壁に井田製薬の本社ビルが映った。井田製薬は、創業二百五十年を迎える日本屈指の製薬会社の一つだ。江戸時代から「薬のまち」として栄えた大阪・道修町に本社を構える。そこは、創業の地でもあった。
阪急電鉄の神戸線と宝塚線の中間に位置する神崎川工場で、主だった薬品が製造されている。電車から見える巨大工場は、そのまま権力を誇示しているようだ。
錦城の説明によると、新薬は二〇一三年にアメリカで医薬品として承認された化合物『ボルテキセチン』が主成分となる。ボルテキセチンは、セロトニン値を上昇させるため、大鬱性障害の治療に効果的だ。既に世界八十三ヶ国で承認されており、様々な薬品名で販売されている。日本でボルテキセチンを主体とした抗鬱薬は、井田製薬が初となる。
厚生労働省が認可する条件として、治験がある。井田製薬は、新薬の名称を仮称『モーニスコプラ』とした。スウェーデン語で「躁」と「リラックス」の単語を捩ったものだ。
新薬はまず、効果効能を動物実験などで確認する。確証すると患者に投薬して、臨床試験が行われる。こうした工程を治験という。『モーニスコプラ』の治験に、芦屋医大が協力した。精神科病棟の入院患者をはじめ、通院患者や、芦屋医大出身の心療内科クリニックにも協力を求め、五百二例のデータが集まった。
井田製薬は、二〇一九年二月に厚生労働省に製造販売承認申請を行った。一年半を要したが、ようやく認可された。プロジェクターに映った資料によると、ボルテキセチンの副作用は「便秘」と「吐き気」になっていた。舞は、ノートPCからネット検索する。近年、開発された化合物のため、ヒット数は、まだ少ない。
だが、ボルテキセチンの副作用は、これまでに見てきた薬物の副作用と同様のものが多かった。二十五歳以下の自殺願望・出血・セロトニン症候群・躁病などだ。舞が、特に気になったのが、「減薬すると離脱症候群に陥る」だ。舞は結局、新薬が開発されても、精神疾患は改善されないと悟った。得意げに話す錦城に、憤りを感じた。
鬱状態から抜け出るには、セロトニン値が上がると一時的に楽になるだろう。だが、その状態を通り過ぎると、セロトニン値の上昇が続き、今度は躁状態になる。躁状態の時に、ヒトは行動を起こす。セロトニンの主な作用は、十四。抗鬱の他に「衝動攻撃行動」も、あったはずだ。舞は丸暗記していた生理学の教科書の内容を反芻した。
舞の席から錦城が立つ教卓を見ると、優子の後ろ姿が、視野に入る。会議室の前方が消灯されているため、優子の白衣姿が薄暗闇に浮かんで見える。
舞の脳裏に今朝、白い女を尾行した光景が蘇った。
――白い女が西宮か芦屋市内の心療内科に通っていたとしたら?
阪神間には、芦屋医大出身の医師が開業する心療内科クリニックが多い。白い女も、治験対象に入っていたかもしれない。若い女だった。恐らく二十五歳以下だろう。舞は、明日の捜査本部出頭を待ち遠しく感じた。
長く感じられた錦城の説明が終わる。正面の壁時計は四時四十分。残り二十分で、優子が栄養療法の進捗を説明する。
(つづく)
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