人は「選択する」という特別な力を持っている。
とりとめのない話をする。
着地点がよく分かっていない話をする。
人は「選択する」という力を持ち、無限に存在している選択肢を毎瞬選んで、目の前の現実を創ってきた。
全てが「自分事」であり「自己責任」である。
私はずっと、なぜか、選択肢は2つだと思っていた。
良い方と、悪い方。
行きたい方と行きたくない方。
昨日ふと、「なんでいつも二択にしてたんだろう」と疑問を持った。
選択肢なんて無限にあるはずなのに、いつもどっちか。0か100か。白か黒か、だった。
理由は分からない。
0でもなく、100でもなく、79でもいいし、45.66とかでもいいのに。
なんで、ふたつに絞って、悩んでたんだろう。
行く、行かないだけじゃなく、保留、無視、全く別の方、でもいいのにね。
やっぱり理由は分からない。
けど、どっちかにしないといけないと、思い込んでたんだろう。
そして、一度決めたことは変えてはいけないとか、思っていた。
これも、理由は分からないけど、あった。
故に私の選択肢は常に《どちらか》で、「選ぶ」ということが命をかけるくらい重たい作業だった。
それが「なんでいつも二択にしてたんだろう」という疑問を抱いたら、様々なことに関する選択肢が一気に複数になり、選びたい放題だ、なんでも選んでいいんだ、自由だ。
と、世界が拡がった。
それと同時に「選択する」ということは、自分の世界を如何様にも拡がりを持たせることができると分かり、どんどん自分にとって素晴らしい方向に進んでいけるのだと腑に落ちた。
複数ある選択肢の中で「良い」を選び、次に続く選択肢の「良い」を選び続けたら、「良いの極み」のような現実になる。きっと。
朝になる。起床時間になる。
起きるか、寝るか、ゴロゴロするか、などの選択肢がある。
予定があれば起き、予定がなかったらゴロゴロするだろう。
体調が優れなかったら寝るだろう。
布団の中で仕事を始めるかもしれない。
朝のこの一瞬の出来事でさえ、様々な選択肢があって、人はそれぞれ自分に合った選択をしている。
「仕事だから起きる」という、仕事が主軸になっているような選択でさえ、【仕事に行くことを自分が決めているから起きる】という選択をしているのだ。
仕事にいかなきゃならない、という現実は自分の選択によって創られたものなのだ。
屁理屈に聞こえるかもしれないけど、そうなのだ。
その仕事に就いたのも、続けているのも、自分自身。
誰かに「やれ」「続けろ」と言われていたとしても、やり続けているのは、自分自身だ。
人にやらされているようで、実は自分がそれを自分にさせている。
働かないと困るから、と思っているのは自分だし、「何が困るのか」という具体的な内容を決めているのも自分だ。
人によっては、そんなの困るのうちに入らないと言う人もいるだろう。
全部、全部、自分が選んでいる。
幸せの度合い、不幸の度合い、その具体的な状況は自分が設定しているもの。
人は、自分の設定に疲弊したり、辛さを感じている。
思い返せば、私はまるっきり、そうだった。
自分の中に何かしらの設定がある状態で、何かを選択する。
設定を遵守するために、様々な苦労をしたり、悩んだり、傷付いていた。
自作自演だ。
何が言いたいのか、自分でもよく分からないけど、
今までの自分はなんだったのだろう・・・
と、呆けている。
これまでの自分の選択肢が間違っていたとは思っていないけど、自分の基準というか、ベースが変わりすぎて、謎な心境。
ただ、これまでよりも、日常の何気ない、選択であるとも認識できない選択が、とても大切であることは分かった。
「選択」は人生の創造だ。
ちょっと・・・今までは選択を適当にしすぎていたかもしれない。
本気で、というとまた違うような気がするけど、その瞬間の「最適」な選択をできるようにしたいと思っている。
この「最適」は自分に素直になるほど本音に近いものになるだろうし、それはちょっと・・・と思うような内容かもしれない。
けど、本音=魂の声なのだから、自分にとってはやはり最適な選択になるんだろう。
と、書きながら考えていたら、
私は自分の人生を本気で生きていく準備が整ったのかもしれない。
なんて思った。
今までが本気じゃなかった、というわけではなく。
『魂に従う』という意味での《本気》ね。
人生がガラリと変わる予感。
どうなるのかは分からないけど、なんか凄そう。
根拠のないワクワク感。
よく分からないワクワク感。
なぜだか、ニヤニヤしてしまう。
日々の選択をもっと丁寧にやってみよう。
きっと、変わる。
現実が。
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