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天神さんの祟り
前のお話では天神さんと梅との関わりなどを話してきました。
そして今回、まず最初は軽いジャブなお話を。
北野天満宮は約12,000社の天満宮・天神社の総本社ですが、日本最古の天満宮は別にあります。それは京都府・園部の地に|生身天満宮《いきみてんまんぐう》の名で存在します。
この天満宮の特筆すべきは、道真公の生前から祠を建て、当時の代官が自ら刻んだ道真公の木像を祀ったことにあります。その祠は生祠といわれ、道真公が亡くなられたのを機に霊廟に改め、さらに五十数年後に神社に改めたそうです。
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生きているうちから祀られていた道真公。あなたはどう思います?
今のあなたが神社に祀られたらと考えてみてください。
私は生きた心地がしませんでしたね。
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さて、いよいよ、殺戮に次ぐ殺戮 鬼より怖い悪霊の復讐劇のはじまりはじまり~。
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「事の起こりは昌泰四年 (九〇一) に起こった昌泰の変。当時右大臣だった道真公を左大臣・藤原時平、大納言・源光、藤原菅根らの讒言により、醍醐天皇が大宰府へ左遷してしまうんだ」
「讒言ということは、ハメられたっちゅうことやろか?」
「讒言の内容に虚偽があったのかは分からないけど、太宰府への移動はすべて自費、俸給もないし、従者もいないし、太宰府に着いても仕事もなかったんだ。とんでもなく酷い扱いだろ? ついこの間まで右大臣だったんだぜ」
「左遷というより島流しのようどすなぁ」
「島流しより酷いと思うよ、だって自費で島流しに行かないでしょ? それって旅行じゃん」
「ホンマやわぁ」
「そして不遇のうちに二年後の延喜三年 (九〇三) に太宰府の地で亡くなっちゃうんだ」
「それやったら島流しにしやはったお人らが恨まれても仕方おまへんなぁ」
「そうだよね、だからここから道真公が恨みを晴らす復讐の始まりとなるわけなんだけど、最初の犠牲者は道真公が亡くなってから五年も経ってるんだ」
「それで道真はんが仕返しをしやはったって言えますのんか?」
「そう思うよね。こじつけっぽいものね。だけど確かに道真公の左遷に関係した人たちに不幸が多いのは事実なんだよ」
「そうなんやぁ」
「最初の犠牲者は、延喜八年 (九〇八) に藤原菅根が五十二歳で病死。あまり若くはないけれど、彼は道真公左遷のきっかけを作った人物だからね」
「そのお歳やったら当時の寿命やおまへんのんか? それを道真はんの仕業やと言わはっても迷惑な話どすなぁ」
「次は翌年の延喜九年 (九〇九) に政治のトップに上り詰めた藤原時平が三十九歳の若さで突然死」
「この方も左遷に追い込まはったお仲間どすわなぁ」
「次は四年後の延喜十三年 (九一三) 、道真公の後任として右大臣を勤めた源光が、狩りの途中で沼にはまって溺死。でも七十歳に近かったというから長命だよね」
「ホンマに道真はんがやらはったことなのか、はっきりせえへん方ばっかりどすなぁ」
「お次は更に十年が経過した延喜二十三年 (九二三 ) に左遷を申し渡した醍醐天皇の息子、保明親王が二十歳で崩御されるんだ」
「天皇御本人やのうて息子はんちゅうのがなんとのう意味深どすなぁ」
「だから、亡くなってから二十年が過ぎているのに祟りを恐れて、職を右大臣に戻し、加えて位を正二位にされるんだ」
「道真はんの左遷に関わらはったお人らはホンマに怖がってはったんやねぇ」
「まだ生きている人には余計にね。でも、まだまだ災難は続くんだ」
「道真公が亡くならはって二十年も経ってますのに?」
「そう。次の犠牲者は醍醐天皇のお孫さん、保明親王の第一皇子・慶頼王が皇太子となった二年後の延長三年 (九二五) に五歳で崩御」
「これも道真はんの影響なんどすか?」
「そして、とうとう最大のクライマックス、延長八年 (九三〇) に超有名な事件が起こるんだ」
「亡くならはって二十七年どすえ、そやのに道真はんのせいなんやろか?」
「『北野天神縁起絵巻』ではそうなっているね。というか最大の見せ場として大きく取り扱われているよ」
「ああ、例の雷が落ちる場面やね」
「そう、それは朝議中の清涼殿での出来事なんだ」
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「亡くならはったお人ばっかりやのうて、逃げ惑うてはるお人も仰山いてはるんやねぇ」
「そう、道真公の関係者では、左遷に追い込んだ藤原清貫、平希世の二人なんだけど、他にも朝廷に多くの死傷者が出たらしいんだ」
「それはビックリしやはったやろなぁ」
「そして遂に醍醐天皇も体調を崩し、同じ年に崩御されてしまうんだ」
「これでおしまいどすやろなぁ」
「実はまだあるんだ。藤原時平の長男保忠が承平三年 (九三三) に三十八歳で死亡」
「えらい仰山のお人が亡くならはったんやねぇ」
「実はそれ以外にも自然災害の日照りや大雨、洪水、疫病などもすべて、道真公の祟りだとされてしまうんだ」
「そんなんあんまりやわぁ」
「遂に道真公が亡くなってから四十四年後の天暦元年 (九四七) 、北野社で神になると言う訳さ」
「これでホンマにおしまいどすか?」
「復讐劇は終わるんだけど、まだ恐れられていたのか、正暦四年 (九九三) 、没後九十年後に、贈正一位左大臣、さらに同年太政大臣となるんだ」
「ホンマに怖がられてはったんやねぇ」
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『北野天神縁起絵巻』は『清涼殿落雷』のシーンが有名で、教科書にも掲載されているというから、見たことがあるという方は多いだろう。私などはあのシーンだけが『北野天神縁起絵巻』だと思っていたのだが、よく考えればそんなはずはなく、菅公の一生と北野天満宮に神として祀られるまでの伝説や逸話を描いたものを『北野天神縁起絵巻』というようだ。しかも、いろんな作家が描いているということで、絵巻は複数あるという。その中でも最大であり、最古であり、しかも未完の大作が『北野天神縁起絵巻 承久本』であり、この本の『清涼殿落雷』のシーンが教科書に掲載されているということだ。
物語があり、幼少期から青年、壮年と続き、太宰府での晩年から亡くなられた後の怨霊神としての面目躍如へと繋がっていく。
北野天満宮の宝物殿では、『北野天神縁起絵巻 承久本』の高精細レプリカが常時展示されている。一見の価値はあると思うのだが。
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最後に
道真公が言ったとか、言わなかったとか、
『死んでから何年も経てから私の祟りだといわれても困るし、私にはどうすることもできないよ』
これはきっと本音なんだろう。また一方で感謝されてもいる。
『あのまま右大臣を続けていたとしても、きっとこんなに有名になることはなかっただろう。怨霊と恐れられたお陰で、学問の神として私を祀る神社が全国に一万を超えるほどあるのだから』
これもまた本音なのだろう。
完
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いつきさまの実線他お借りしました。ありがとうございます。
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