歩くために、歩いてみよう

　目的を持って歩くことも良いけれども、目的なく歩くことはもっと良い。

　目的のある歩行というのは、例えば買い物に行くためとか、駅に行くためとか、何か歩くこと以外の目的を達成するために歩くことがそうだ。東海道を踏破するとか、シルクロードを踏破するとか、世界を歩いて旅するとか、そういうのも目的のある歩行かもしれない。

　目的のない歩行とは、ただブラブラ歩くこと。なんとなく家の周りを歩いたり、近所の川沿いを歩いたり。要するにただの散歩のことで、散歩には、散歩すること以外の目的は無い。ただ歩くために、歩くこと。歩くことのほかに、何も達成しないこと。
　だから、健康のためとか、ダイエットのためとかになると、やっぱりそれは目的のある歩行になる。
　
　例えば、どこか目的地に着くために歩いているときは、歩くことがひとつの移動手段になっている。それは換えようと思えば、他に換えが利く。もし出来るならば、車の方がずっと速いし、遠いところに行くなら電車が楽で良い。歩くことは一番効率が悪いから、なるべくなら他の方法で移動したい。
　それに雨の日なんて最悪だ。ズボンも靴も靴下も、ずぶ濡れになって気持ちが悪い。足が重いと、心も重くなる。朝、家を出るのが憂鬱になる。雨の日だけ家の前に電車が止まってくれたら、どんなにいいだろう。僕は和牛券や旅行券よりも、雨の日のタクシー券が欲しいくらいだ。

　でも、歩くために歩くなら、晴れでも雨でも、どっちでも良い。青空の下を歩きたいから、歩く。雨の中で歩きたいから、歩く。
　雨の日なら、最近買ったばかりの、お気に入りの赤い傘を差しても良いし、雨に濡れることを楽しんでも良い。小さなカメラを持って外に出て、歩きながら、雨の風景の写真を撮るのも良い。雨の日は意外と良い写真が撮れるから、ちょっとしたカメラマン気分が味わえる。晴れの日と雨の日で、いつもの風景ががらりと変わることに気づけたら、その日から世界を見ることがもっと楽しく思えるようになるだろう。

　もう一つの例を見てみよう。東海道を踏破する目的で歩くならば、その成果は文字通り、東海道を東から西まで踏破した達成感や、栄誉を得ることにある。
　そんな長い距離を歩くなんて凄いねって、みんなが驚き、褒めてもらえると、ちょっとした英雄気分にもなるかもしれない。人があまりやらないことをするというのもとても面白いことだから、僕もいつか、東海道やら四国のお遍路やら万里の長城とかを、何日もかけて歩き通してみたい、という夢はある。そんな贅沢な時間が取れるなら、そのとき僕はとても幸せだろうなと思う。
　
　でも、そんな特別で大きな目的がなくても、やっぱり歩くことはそれだけで良いものだ。近所の公園のまわりをくるりと一周するだけでも、十分立派な歩行だ。
　田んぼのあぜ道を毎日歩いていたら、春の田植えから秋の稲刈りまで、季節の鮮やかな変化を見ることが出来る。冬には、雪の下で、次の春の準備をして眠っている土を感じることも出来るかもしれない。それは毎日その場所を歩いた人にしか感じられない、何にも換えることの出来ないものだ。そして人生を豊かにしてくれるものは、大体そういうものだったりするんじゃないかな。

　人生の達人というのが実際にどんな人物なのかは良く分からないけれども、僕が思うに、その人はきっと、些細な毎日から楽しみと幸せを見つけることがとても上手な人だろう。
　人生の達人は、世界から楽しみを見つける方法をたくさん知っているから、どんな毎日に出会っても、いつも幸せを感じていられる。

　歩く速度は、この世界をゆっくりと眺めるのに、一番適した速度だと思う。自動車や電車は、実は僕たち人間には、ちょっと速いのかもしれない。

　例えば、いつも通勤している駅から、その隣の駅まで歩いてみるだけでも、毎日猛スピードで走り抜けては飽きるほど眺めていた車窓の風景の中に、たくさんの新しい発見をすることだろう。大きな川沿いの、人懐っこい野良猫のお昼寝に遭遇した道は、僕のお気に入りの道のひとつだ。
　恋人とデートするときのように、風景に歩幅と歩調を合わせる。そうすれば、風景は僕たちに、その秘密をぽつぽつと、静かに語りかけてくれる。
　そうして歩いた後に、今度は同じ風景を電車の窓から眺める。するとその風景が、今までよりもずっと親しいものに変わっていることを知る。あの道沿いに咲いていた紫陽花はどうなっているかな、なんてことを思って、季節が変わったらもう一度歩いてみようと考えてみたり。たったそれだけのことでも、毎日の通勤電車が、ほんのちょっぴり楽しいものに変わっていくだろう。

　ほんのちょっぴりの楽しみは、なんてことのない些細な毎日から、ほんの少しずつ集めることができるのだ。そんな意味のことを、歩くために歩くことは、僕たちに教えてくれる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
miuraZen
歩く人

描いたり書いたり弾いたり作ったり歌ったり読んだり呑んだりまったりして生きています。
趣味でサラリーマンやってます。