僕は歩く人になろうと思う~歩行の速度、身体の速度、そして現代の速度~
人類の起源がいったい何百万年前まで遡るのか、その正確な時間を知ることは出来ないけれども、その起源の地とされている現在のアフリカ大陸中央部から、ホモ・サピエンスが外部に移住を始めたのは、一説によると、約7万年前とされている。
ある者たちは、アフリカの東端、現在のソマリア半島から海を渡り、アラビア半島を経て、ユーラシア大陸、そしてアメリカ大陸へと移動した。またある者たちは地中海を越えて、ヨーロッパへと北上した。そして、ある者たちは、アフリカ大陸の南端へと辿りついた。
彼ら古代人は、なぜ移動したのか。それはおそらく古代考古学の、大きな謎のひとつだろう。
自分は学者ではないから、確たる証拠や資料を持って正確に語ることは出来ないけれども、彼ら古代人の、何万年にも渡る移動に思いを馳せ、想像してみることくらいならできる。
それは、より食物の豊かな土地や獲物を探し求める、勇敢な移動だったかもしれないし、あるいは抗争により故郷の土地を追い出された結果の、悲しみにくれた移動だったかもしれない。
だが、その移動にどのような事情があったにせよ、そのすべてにおいて、彼ら古代人に共通していたであろうことが一つある。それは、彼らが徒歩で移動していたということだ。彼らは自分たちの二本の足で、歩いていた。歩くことが、移動の唯一の手段だった。
人類は、他の動物たちと違って、独自に頭脳を獲得し、道具の使い方や作り方を学び、文明を発達させてきた。その理由は、人類が直立二足歩行するように進化したからだ、というのは、誰でも一度は学校で習う話だと思う。
しかし、少し考えて想像してみれば、これが僕たち人間に対して持つ意味は、はいそうですか、と簡単に納得出来る種類のものではない。それは誰もが想像している以上に大きな意味を持っているように思える。
直立二足歩行による、何万年にも渡る徒歩による移動。歩くことが、人類が人類である源であり、人類に現代の繁栄を授けた所以だというのならば、歩くことが人類に与えてきたものは、まさしく神の恩寵である、といっても大げさではないかもしれない。旧約聖書にある知恵の果実とは、実は「二本の足で歩くこと」ではないのか。
人類の起源とその歴史が、それを計らずも証明してはいないだろうか。
ともあれ、この主張が神学的に正しいかどうかなど重要ではない。
「歩くこと」が、何万年にも渡り人類によって行われてきた、という事実と、それが人類に知恵を与え、道具を与え、文明を与えてきた、という事実。
そしてそれは過去のものではなく、現代を生きる僕たちも同じ人間であり、同じ身体を持っているのだから、歩くことから同じように影響を受け続けているはずだ、ということ。「歩くこと」の大きな意味について、僕が一番重要だと思っている点は、ここにある。
鉄道や車という、機械による移動手段が発明されたのは、ほんの100~200年ほど前のことで、それ以前の六万九千九百年は、人類は、その移動の多くの局面で、自分たちの足で歩いていた。その途方も無い時間、果てしの無い移動が人間の身体に刻んできた進化の歴史、遺伝子は、ほんの100年ほどで簡単に変化してしまうものだろうか。
僕たち人間の身体は、自分たちが思っている以上に原始的かもしれない。僕はこの自粛期間中に、歩くことを通して、そんなことに気づき始めていた。
5月の連休中に、東海道を西へ向かってひたすら歩いた。神奈川県の江ノ島が程近い辻堂から、県境の湯河原まで。写真を撮りながらゆっくり歩いていたとはいえ、ひと駅歩くのに、2時間。ふた駅分だと4時間の道のりは、実際に歩くと結構大変だ。
歩きくたびれて、着いた駅で一息ついてから、帰途の電車に乗る。痛む足を引きずるようにしながら、一歩一歩踏みしめてきた道を、電車は猛スピードで駆け抜けていく。4時間の道のりを、ほんの10分で走り去る。
僕はこの速度に正直驚いた。当たり前のことなのに。
おそらく、初めて鉄道で旅をした人たちは、その速さに僕以上に驚いたに違いない。何日も、何時間もかけて、両足を前に出して、その痛みをなだめながら、時にはため息をついて、その先に続く道のりの困難を憎み、それでも確かに地面を踏みしめて歩いていた道のり。それを電車は、僕たちに苦労を感じさせることなく、一瞬で走り抜いてしまう。
この速度は人間の身体の理解を超えていないか?
車窓を流れる景色を眺めながら、ふとそんな疑問が頭によぎった。この速度が僕たちに与えてくれるのは、距離と時間から開放された喜び、本当にそれだけなのだろうか。
学生時代に読んだマハトマ・ガンディーの本だったか、確か岩波文庫の『真の独立への道』だったと思うのだが、人間は自分の足で歩くことの出来る範囲でしか物事を考えることができないし、理解もできないのだから、鉄道は将来人間に害をもたらすことになるだろう、というようなことを言っていたのを思い出した。
歩くことは、人間の移動手段として最も効率が悪い。遅い、疲れる、雨に濡れ、風に吹かれる。だから僕たちは、あまり歩かなくなった。車や電車が楽だし、速い。人に会うにも、買い物をするにも、今はオンラインで一瞬だ。そこに道のりは必要ない。
しかしそれは同時に、歩くからこそ、そこに見えていた、ひとつひとつの景色の豊かさを、道のりの手ごたえを、踏みしめた地面の硬さを、そして移動することが僕たちに与える足の痛みを、夜の暗闇に包まれた道の恐怖を、見失うということにならないだろうか。
例えば、その痛みや恐怖を踏みしめた末に、大切な人と再会した昔の人たちの喜びは、オンラインでいつでも話せる人と会うときの僕たちの喜びと、本当に同じなのだろうか。
同じ「喜び」という言葉で、それを理解し合えるだろうか。
見失われたものが目に見えるように現れる瞬間に、最近は度々遭遇する。
例えば僕たち人間と言葉の関係について。
言葉が本来持っている痛みを見失った人々が、ネット上で言葉を投げつける。その結果、その言葉の群れが、若い女性を自殺に追い込んだ。つい最近の話だ。
おそらく、その言葉を投げつけた本人たちは、その言葉が持つ痛みを理解していない。頭では分かっているかもしれないが、身体で理解していない。その感覚を持っていないのだ。
自分たちの身体を使って、手や足を使って生きることの、その苦労や、掛かる時間や、痛みを失った人間は、使う言葉もまた、空想的で観念的になっていく。
今回の疫病下で、オンライン上で飛び交っていた言葉は、おそらくそのほとんどが、こうした言葉だったように感じていた。
僕たちはいったい何を見失ったのだろうか。なぜそれらを見失ったのだろうか。
それらを見返りとして、何を得てきたのか。
僕は歩く人になろうと思う。歩くことに立ち返ってみようと思う。
歩くことについて書きたい。歩くことの意味を考えてみたい。
歩くことと人類の関係を探りたい。
歩くことが僕たちに与えてきた恩恵を、その意味を、もっと深くまで探ってみたい。
歩くことを失うことで、僕たちが失うものが何か、そして得たものが何かを、知りたい。
僕たちが本当の意味で理解できる世界がどこまでなのかを知りたい。
どこまでを本当に知っていて、どこまでを知っていると思い込んでいるのか、知りたい。
そして、僕たち人間の、本当の幸せは何なのかを、知りたい。
恐らく、原始的な意味で身体を使って生きている人たちは、それぞれが自分の方法で、これらの問いを理解する鍵を持っていると思う。
僕の鍵は、歩くことだ。
そしてそれは、僕たち人類の共通の鍵となる可能性を、大いに持っていると思う。
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miuraZen
歩く人
描いたり書いたり弾いたり作ったり歌ったり読んだり呑んだりまったりして生きています。
趣味でサラリーマンやってます。
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