
瓦礫の中から
広島市の中心部です。
川沿いには広い公園があって、
この建造物が、建っていました。
原爆ドームとよばれるこの建物は、かつては、
広島県物産陳列館とよばれる建物で、建てられたのは大正4年( 1915年 )。
緑色のドームがシンボリックで、広島市民から愛されていたようです。
館内では県物産の展示や即売が行われ、美術展や博覧会を催されたこともありましたが、やがて広島県産業奨励館と名前を変え、戦争の激化とともに、官公庁の事務所として使用されていました。
ところが昭和20年( 1945年)の8月6日、午前8時15分に、
米軍のB29爆撃機が、人類史上初めての原子爆弾を広島に投下しました。
原子爆弾は、広島県産業奨励館の南東160m、上空600mで炸裂し、建物は瞬時に大破して、館内にいた全員は即死しました。
しかし爆心地に近かったことから、上方からの爆風がほぼ垂直に吹きつけたため、建物の壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄骨も残りました。
原子爆弾の投下という歴史的な惨事によって、投下された頃は「 広島に半世紀は草木が生えない 」とも言われました。
戦後復興の中、この原爆ドームを「 記念物として残そう 」という意見と、「 倒壊の危険があり、被曝( ひばく )の悲惨な思い出につながるから取り壊そう 」という意見で揺れていましたが、
昭和41年( 1966年 )に、広島市議会が、このドームの保存を決議しました。
そして、この決定の翌年の昭和42年( 1967年 )に初めての保存工事が行われ、それから3回の保存工事が行われました。
原爆ドームに近づいてみると、
草は綺麗に刈られているのに、瓦礫( がれき )は転がったまま置かれていて、徹底的な保存がされていました。
少し離れて、よく見てみると、
できるだけ当時の駆体を残しながら、それを残すために、コンクリートの壁や鉄筋の構造物が付け足されているのが、よく分かりました。
昭和42年に行われた初めての保存工事の時に作られた解説板があって、まるで記念碑のようでした。
文章の最後に書かれていた「 これを永久に保存する。」という言葉に、広島市の強い意思を感じました。
ふと、原爆ドームの横を見ると、
大きな木が生えていました。
木は榎( えのき )で、
75年間、散らばったままの瓦礫から生えていました。
「 原爆ドームの瓦礫の中に、庭木としてほぼ植えられることのない榎を植える 」ということは考えられません。榎は自然に芽生えたのです。
榎の実を食べた鳥が、体内で消化されなかった種を排泄したことで、芽生えたのです。
現在の榎( えのき )の樹齢は、50才から55才くらいでしょうか。
「 芽吹いている若い榎 」には、僕は今まで何度も遭遇してきました。
瓦礫は1カケラも動かさない徹底的な保存をされながら、
芽吹いた小さな木を尊く感じ、抜いたり大きな剪定をすることはなく、ずっと見守ってきた人がいるのです。
榎( えのき )は、りっぱに成長していました。
原爆ドームの保存のことだけを考えると、大量の落ち葉や虫や鳥を呼んできて、根っこがコンクリートの壁を持ち上げる榎は生えていない方が良いです。
人々は、どんな思いで、この榎を見守ってきたのでしょう。
すこし右まわりに進むと、
原爆ドームは榎に隠れて、
さらに離れてみてみると、まわりは、たくさんの木々に囲まれていました。
悲劇を忘れないこと。
でも生きつづけていると、希望もきっと芽生える。
そんな声が、どこかから聞こえたような気がしました。
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