「胸を張って走れ」第5話 (note創作大賞2024 お仕事小説部門)
第5話
月曜日の夜はマラソン教室の日だ。真帆は夫と息子の夕飯にハヤシライスを作り置きして急いでスポーツセンターに向かう。更衣室に入ると静香が着替えているところだった。
「こんばんはー」
「あ、真帆ちゃん。こんばんは」
名前、覚えててくれたんだと真帆の顔はほころぶ。今日の静香のいでたちは薄いピンクのパーカーに、黒いショートパンツとランニングタイツを合わせている。今日も静香さんはオシャレだ。
そして四宮コーチは今日も熱い。
「さあ、今日も頑張って筋トレしていきましょう!筋肉は裏切りません!かならず努力に答えてくれます!」
筋トレ教室だかマラソン教室だかよく分からなくなってきたが、妙に熱い四宮コーチのトレーニングに集中していると、真帆は日常の些細なモヤモヤを忘れられるのだった。
「では、今日はブルガリアンスクワットをやりましょう!」
なんだそのプロレス技みたいな名前はと真帆はおののいた。
「こちらのベンチに移動してください」
ベンチのある一角にみんなでぞろぞろ移動しする。
「ベンチに足の甲を乗せて片足で立ちます」
「前に出した脚の膝を曲げてゆっくり腰を落とします。背筋をしっかり伸ばしてください」
コーチは軽々とお手本を見せる。1つのベンチに5人ずつ並んで、みんな一斉にブルガリアンスクワットとやらをやってみる。コーチは簡単そうにやっているのだが、4回目ぐらいで脚がふらついてくる。片足10回ずつはかなりきつい。
「くーっ」
真帆は歯をくいしばりながら必死に曲げた膝を伸ばす。となりにいる静香も「ひーっ」と声をあげながらへっぴり腰で膝を曲げ伸ばししている。なんとか10回こなすともうヘロヘロだ。
その後も「右腕を前に左腕を後ろに回しながらスキップ」とか、「高速で100メートルスキップ」とか何に効くのか分からないトレーニングを延々とやらされ、ようやく残り30分になった時、コーチがみんなに向かって「20分間走をしまーす」と告げた。20分間走とは各自のペースで20分間トラックを回るトレーニングだ。
「走る時は、地面に対して足をまっすぐ下ろし、体は左右に傾かないように!疲れてくると猫背になりがちですが、必ず胸を張って!胸を張ると呼吸もしやすくなるんです」
コーチが正しい姿勢のお手本を見せる。素人目から見てもムダのないきれいなフォームだ。
「正しい姿勢を意識して、20分間走ってみてください」
ひと休みする間もなく20分間走が始まった。真帆は静香に「けっこうスパルタですよね~。意外と四宮コーチってドSなのかな」と文句を言いながらも、久々の部活のような雰囲気に心が躍っていた。
「ではいきまーす。用意、スタート」
普段はつい下を向いて走りがちきがちな真帆は、コーチのアドバイスどおりに胸を張ってみた。
うん、いい感じ。
ちょっと姿勢を変えただけなのに、こうして競技場のトラックを走っている自分を誇らしく感じる。私は自分の意志で走っているという確かな実感があった。
あっという間に20分間走が終わった。高校の頃はあんなに持久走が嫌いだったのに不思議なものだ。
「お疲れさま。真帆ちゃん、速いねー」
振り返ると静香が肩で息をしている。
「私なんてもうヨレヨレだよ。年かな」
「年なんて、静香さん、まだ若いじゃないですか」
静香は「いやいやいや」と否定しながら水筒の水をごくごくと美味しそうに飲み、ふうとため息をつくと、
「ねえ、このあとよかったらご飯でも食べていかない?忙しいかな?」
「いえ、ぜんぜん大丈夫。行きましょう!」
こういう時、普段の真帆なら「面倒だな」と思ってしまうのだが、気づいたら即答していた。
真帆と静香はスポーツセンターの入り口を出てすぐ左側にある、「ととや」というのれんのかかった居酒屋に入った。
「ご飯っていうか、おもいっきり飲み屋って感じだよね」
と言って静香は笑った。
「真帆ちゃん、お酒飲めるんだっけ?っていうかそんな話したことないよね。あんな健康的な場所で」
「飲みますよー!でも息子が生まれてからは飲みに行くなんてほとんどないですけど。一緒に飲みに行くママ友とかもいないし」
「真帆ちゃん、ママやってるんだね。それでマラソンもやってるなんてほんとにすごいよ。あ、とりあえず注文しよっか」
静香はテーブル脇に立てかけてあったメニューを開く。
「私は、生ビール。真帆ちゃんは?」
「私もビールで」
すぐに生ビールが2つ運ばれてきた。
「かんぱーい!」
ひとくち飲んで、「くーっ」と言う静香と真帆の声が重なって2人で笑いあう。
「運動のあとのビールは格別ですね」
居酒屋で友達と生ビールを飲むなんていつ以来だろう?真帆は思い出そうとしたが思い出せないほど遠い昔だ。
「いつもランニングウエア着て筋トレか走るかしてないから、このシチュエーションって新鮮。講習中だとなかなかゆっくり話す機会ないからうれしいですよ。静香さん、誘ってくれてありがとう」
「なんか、真帆ちゃんと話してみたいなって思ったんだよね。私、わりと人見知りなんだけど」
「あ、私もです。人見知り仲間。でも、静香さんと話してみたいなって思ってました」
それからお互いに自己紹介をしあった。静香は真帆より10歳年上の46歳で、もう20年以上も翻訳会社で働いているという。
静香という名前どおり物静かな感じの人だと真帆は思っていたが、1杯目のビールをけっこう早めのペースで飲み干して頬をほんのり染めた静香は饒舌だった。
真帆も2杯目のビールを頼む頃には、静香と始めて向かい合って座った時のうっすらとした緊張感はすっかりほぐれていた。いつも周りの人に対して無意識に作っている薄い壁がお酒のせいか今日はとっぱらわれていて、言いたいことが素直に言える。
「静香さんはすごいですよ。ずっと働いてて。ランニングウエアもオシャレだし、こないだ更衣室で会った時の服もビシっとキマってて、キャリアウーマンって感じ。私なんてほんとしがない専業主婦だから静香さんがまぶしいですよ」
「私なんてなんのキャリアもないし、職歴が長いだけだよ。独身だから気楽だし。それに比べて真帆ちゃんはえらいよ。毎日家族のご飯作るだけでもすごいことだし。しかもちゃんと子育てして本当にすごい」
そう言いながら静香は焼き鳥盛り合わせの串を皿の上で全部外してくれた。
「ぜんぜんすごくないですよ。料理も上手くないし、掃除もテキトーだし、家事とかほんとは苦手で。専業主婦だからやらなきゃって一応頑張ってるのに夫も子供もぜんぜん感謝してくれないし。私なんか存在する意味あるのかなって…」
真帆はなんだか悲しくなってきて涙がにじみ出てきた。ビールのせいで感情を抑える蓋がゆるんでるのかも、と思いながらさりげなく涙を拭き、ジョッキの底にわずかに残ったビールを飲み干す。
「存在する意味どころか、真帆ちゃんがいなかったら家庭は成り立たないよ。旦那さんが思いっきり働けるのも真帆ちゃんがちゃんと家を守ってるおかげだし」
「働いてない自分には価値がないんじゃないかと思っちゃって」
「こんなに働いてるじゃない。専業主婦の仕事って、外で働くみたいな分かりやすい形じゃないけど立派な仕事だと思うよ。ある意味、私のいる翻訳業界も似たようなものかもしれない」
そう言いながら静香は串から外したつくねをつまむ。
「翻訳って黒子みたいな仕事なんだよね。表に出ることなく、誰かの言葉をひたすら伝えるの。でもそれをすごく必要としている人がいる。しかも私なんて翻訳をする翻訳者でも外で仕事を取ってくる営業でもない、手配をするコーディネーターだから。裏方の裏方。でもさ、世の中、みんなが表に出るわけじゃない。裏で支える人がいないとどんな仕事も成り立たないよ。世の中って、結局表に出ない大多数の人が回してる」
「でも、静香さんはちゃんと稼いでるでしょ」
「まあ、お給料はもらってるけど、会社で堂々と「稼いでる」って言えるのは営業の人じゃないかな。私は稼ぐ人たちのサポート。真帆ちゃんと同じ立ち位置じゃない?家庭を会社に置き換えてみたら。外に出てお金を稼ぐ旦那さんを真帆ちゃんがサポートする、言ってみれば株式会社徳田の営業補佐?徳田家として稼ぐのは旦那さんかもしれないけど、真帆ちゃんがいなかったら家庭は回らない。もっと自信もっていいんだよ」
「そうかな、なんか元気でました。ありがとう。ところで、静香さんはなんで走ろうと思ったの?」
「そうねえ。特にこれっていう壮大な理由はなくて、最近運動不足だからっていのもあるんだけど、強いて言えば自分の力で何かを成し遂げたかった、からかな。へへへ」
静香は照れを隠すようにレモンサワーを一口飲んだ。
「今まで何かを頑張ったって実感することがなかったんだよね。マラソンってなんかこう、努力すればしただけ成果が出るスポーツじゃない?四宮コーチも「筋肉は裏切りません!」って言ってたし。
静香の物まねが似ていたので真帆は飲んでいたカシスオレンジを思わず吹き出しそうになる。
「私、なんとなく大学に行って、英文科で英語が好きだったからなんとなく翻訳会社に就職して。居心地の良い会社だから辞める理由もなくて気づいたら20年以上も勤めちゃった。このままでいいのかなあって思った時に知り合いの人がフルマラソンの大会に出て人生変わったって言ってたの。私もフルマラソンを走れば人生変わるかなと思ってとりあえず走り始めてみたんだ。真帆ちゃんはなんで走り始めたの?」
「なんか、自分が透明人間になったみたいな気がして」
「透明人間?」
静香が不思議そうに聞き返す。
「自分が空気みたいな存在だなと思って。家では家族のためにご飯作って子供育ててるけど誰にも感謝されないし。外では子供のママとしてしか見られないし。それで当たり前だと思ってたけど、だんだん「自分の存在って何?」とか思い始めちゃって、自分がどこにいるのか分からなくなってきちゃって。「私、ここにいる」っていう実感が欲しかったんだよね」
「なんか分かる気がする」
ポテトフライをつまみながら静香が言う。
「私は独身で一人暮らしだから、むしろ自分しかいないんだけど」
静香は笑いながら続けた。
「マラソンに人生を投影しちゃうのが分かるなーと思って」
「なんでしょうね?ただ走ってるだけなのに」
「私がマラソンを好きなのは人と比べなくていいところかな。なんだか私、人と自分を比べちゃうんだよね。私と同じ40代後半の友達はみんな結婚して子供がいたり、独身の友達は外資系の会社とかでバリバリ働いて稼いでマンション買ってたりするの。自分以外の人はみんなキラキラしてるように見えるんだよね」
バリバリのキャリアウーマンに見えた静香の意外な言葉に、真帆はどこか安心する。
「周りと比べちゃう気持ち分かります。私も周りのママと比べてよく落ち込んじゃう。子供が2人や3人いてフルタイムで働いてるママとか、社交的でママ友がいっぱいいる人とかに比べると自分ってダメだなあって」
「マラソンって、人によって走力や筋力のポテンシャルって全然違うから比べようがないじゃん?そこがいい。マラソン歴も練習環境も人によってばらばらだから比べられない。だから人と競うというより、過去の自分と勝負するというところがいい。走ってる時は人と比べる必要がない、とことん自分と向き合えるんだよね」
「すっごくわかる!」
真帆は思わず大きな声が出た。だからこんなにもマラソンに惹かれたんだ。自分でもよく分からなかった気持ちを静香は言葉にしてくれた。
「旦那と賭けしてるんですよ。フルマラソンを走れるかどうか。横浜マラソンで完走できたら1週間分の家事を全部やらせてやるんです!」
静香と話していると、真帆は本当に出来るような気がしてきた。
「いいねえ。やらせちゃえ、やらせちゃえ! 横浜マラソン、私もエントリーしたよ。じゃあ、お互いの完走を願ってあらためてかんぱーい!」
今日、静香と話せてよかった。心の底からそう思いながら真帆はグラスを合わせた。
(第6話(最終話)に続きます)
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