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「胸を張って走れ」第4話 (note創作大賞2024 お仕事小説部門)#創作大賞2024 #お仕事小説部門
第4話
5月半ばのある晩。真帆は陸上競技用のトラックの上にいた。
近所にあるスポーツセンターの外には本格的な陸上競技用のトラックがある。とはいっても陸上の大会に出るわけではなく、真帆の住む大山市が主催している「マラソン教室」に参加するためだ。
5月の初めに真帆はインターネットで横浜マラソンの申し込みを済ませ、いよいよフルマラソンを走るということが現実味を帯びてきた。参加料2万円という決して安くないエントリー料を振り込むと、「もう後へは戻れない」と腹をくくることができた。真帆が夫の修一にエントリーしたことを話すと修一は、
「2万円も払って罰ゲームみたいなことする気が知れないよ。でもまあ、まず完走なんて無理だよな。2万円もったいねー」
と、小ばかにしてきた。
もう、この人にマラソンのことは話すまい。真帆はそう心に決めた。夢なんて周りの人に認めてもらわなくてもいい。何があっても自分さえあきらめずに大切に胸に抱えていれば、他の誰も奪うことはできないのだ。あとは実現に向けて淡々と行動するのみだ。
翌日、ポストに入っていた大山市の市報を読んでいると「マラソン教室開催のお知らせ」という記事が目に飛び込んできた。
「ランニング初心者の人でも大丈夫。ランニングの基本から丁寧に指導します。みんなでフルマラソン完走を目指しましょう!」というコメントに真帆は釘付けになった。コメントの横には「マラソン教室コーチ 四宮和樹」という名前と共に、短髪に白い歯を丸出しにしてニカッと笑う、いかにも体育会系の男性の写真が添えられていた。写真からにじみ出る良い人オーラに真帆は希望の光を見た気がした。
「この人についていけばフルマラソンも走れそうな気がする!」
そしてすぐにスマホから申し込みをした。
夜のライトに照らされた陸上競技トラックは、昼間の買い物途中に通りかかった時に見えるスポーツセンターとはまったく違う世界だ。「非日常」という言葉がぴったりなその光景に真帆は興奮した。さっきまで家族のために夕飯の作り置きカレーを作っていたのが別世界だ。
わいわいと準備体操をする学生の陸上部らしきグループや、タイムを計測しながら全速力で走っている社会人チームらしき人たちもいる。真帆も自分がアスリートの一員になった気分がした。
トラックの片隅に15人ぐらいの人が集まっていた。会社帰りのサラリーマン風の男性や、白髪の混じった60代ぐらいの小太りの男性、友達と2人で来ているらしい若いOL風の女子や、いかにも速く走れそうなベテラン・ランナーっぽい40代ぐらいの女性など、年齢も職業もランニング歴もまちまちという感じだ。よく見ると、市報に写真が載っていた四宮コーチもいる。
「写真どおりに良い人オーラを放ってるな」
真帆はこっそりとコーチを観察した。想像していたよりも小柄だが、さすがアスリート、体脂肪率おそらく1ケタのムダな脂肪が1ミリもなさそうだ。年齢は30代半ばぐらいだろうか。短パンから伸びた脚は、すべて走るために必要な筋肉で出来ていそうだった。まるでクリスマスのチキンみたいな脚だ。
家族には夕飯のカレーを作り置きしてきたが、慌ただしく家を出て来たので自分は食べるのを忘れていたことに真帆は気づく。
「ではそろそろ始めます!皆さん、お集りいただきありがとうございます!コーチの四宮です。これから半年間の講習を担当させていただきます。よろしくお願いします!」
四宮コーチはそう言って、真っ白い歯を見せてニカっと笑った。
「マラソン教室というと、走る練習をするイメージがありますが、走るためにはまずきちんと筋肉をつけないとケガをしてしまいます。大事なのは筋肉、とにかく1に筋トレ、2に筋トレですっ!」
暑苦しく語るコーチに真帆は一抹の不安を覚えた。高校のハンドボール部の鬼顧問を彷彿とさせた。学校のグラウンドを走らされた苦い思い出がよみがえる。それに筋トレなんて高校の部活以来やったことがない。
「ではまずこちらの芝生の上で腕立て20回と腹筋20回!」
トラックに囲まれた芝生のエリアにぞろぞろとみんなで移動する。
高校の頃は難なく20回ぐらい出来た腕立て伏せや腹筋が、今やってみるとまったく出来ないことに真帆は衝撃を受けた。腕を曲げると体が重くてもう伸ばすことができない。
「ふう~」
腕を曲げたものの伸ばす力がなく、グラウンドの芝生にぺたんと腹ばいになって真帆は息をついた。
ふと横を見ると、真帆と同じような姿勢で芝生に寝そべっている女性と目が合った。
「腕立て伏せって意外と難しいのね」
彼女は笑いながら真帆に話しかけてきた。年齢は40代後半ぐらいだろうか。ブルーのTシャツにグレーのジャージを履いている。すらりとした体形に、長い髪をひとつに束ねている。
「昔は普通に出来たから余裕だと思ってけど、自分のダメっぷりにびっくりしちゃいましたよ」
真帆が答えると、彼女は面白そうに笑った。
周りを見てみると、ちゃんと出来ている人が半分、あとの半分は自分のように苦戦している。「ガチなランナーばかりだったらどうしよう」と心配していた真帆だが、少しほっとする。
「20回ずつ終わった人はここに並んでくださーい」
腕立てと腹筋が終わった人たちは、コーチの指示どおり5人ずつ2列に並ぶ。真帆と先ほどの40代女性が一番最後になった。
「では、右脚を90度に振り上げながら左手でタッチ、次に同じく左脚を90度に振り上げて右手でタッチします。前に進みながら交互に繰り返して、あの白い線の所まで行ってください」
コーチは説明しながら軽々と脚を振り上げてみせる。真帆もマネしようとしたが、脚が90度どころかその半分も上がらない。白い線までは50メートルぐらいあるが、右、左、右とやってみたところで真帆はヘトヘトになった。 横を見るとあの女性が真帆と同じぐらい体をくの字に曲げ、「ふんっ!」と力いっぱい脚を上げようとしているが、体がかなり硬いらしく30度ぐらいしか脚が上がっていなかった。真帆と女性は顔を見合わせて大笑いした。
その後も「右手を前回し、左手を後ろ回ししてスキップ」とか、「50メートル大股歩き」などのトレーニングを30分ぐらい続けててから、いよいよトラックを走る。
「このトラックは1周400メートルです。ご自分のペースで5周走ってください」
スピードに自信のある者は前の方、自信のない者は後ろの方に並ぶ。真帆とあの女性は一番後ろの方に並んだ。
タイムを計って走るなんて高校の体力テスト以来かもしれない、と思うと真帆は不安な反面、長い間忘れていた自分の闘争心のようなものがどこからかむくむくと湧いてくるのを感じた。
「用意、スタート!」
合図とともにコーチがストップウォッチのボタンを押す。全員が一斉に走り始める。
真帆は軽い足取りで走り始めた。週に1~2回とはいえ、この4カ月間コンスタントに走っていたせいか意外と体は軽い。安物のランニングウォッチを見ながらで1キロ6分30秒をキープする。フッフ、ハッハとリズムを刻むように呼吸を整える。赤みがかった茶色の地面に浮かぶ白いラインが流れていく。スタンドのライトの明かりに照らされて走る自分はまるでスポットライトを浴びているようだ。空にはぽっかりと三日月が浮かんでいる。
1周目まであの女性と並んで走っていたが、2週目になると彼女は視界から消え、自分だけの世界になった。自分の呼吸とコースだけの世界に真帆は没頭した。あっという間に5周走りきる。
「13分52、53、54…」
コーチがタイムを読み上げる声を後ろに聞きながら真帆は息を整える。6分30秒はキープできなかったけれど、久々に測るタイムにしては上出来だ。
真帆より5分ほど遅れてあの女性が一番最後にゴールした。最後の方はほとんど歩くような速さで息も絶え絶えという体だ。
全員でストレッチをして、その日の講習は修了した。
真帆が更衣室で着替えていると、「お疲れさま」と先ほどの女性が声をかけてきた。
「すごい、速いのね。いつも走ってるの?」
「ええ、少しだけ。週に1回とか2回なんですけどね。夫には『シューイチランナー』とか言われてます」
「週1でもすごい!あ、私、結城静香っていいます」
「あ、徳田真帆です」
静香はもうジャージではなく、グレーのパンツに白いブラウスにパンプスという会社帰りらしい格好に着替えていた。
「また来週、よろしくね。それじゃあお先に」
静香は大きなカバンを抱えて涼やかに更衣室を出ていった。
「静香さんっていうんだ。名前と雰囲気がぴったり」
さっき体をくの字に曲げて脚を必死に振り上げていた女性とは別人のようだ。息子のクラスのお母さんたちとはまったく違ったタイプだ。日常生活では絶対に接点がない人だろう。なんでまたマラソン教室に通ってるんだろう?
「来週会ったらもっと話してみよう」
真帆は自分からぐいぐいと人に話かけに行くタイプではなく、どちらかと言えば人見知りだったが、なぜか静香ともっと話したいと思った。
日曜日の昼下がり。修一は定位置のリビングのソファで相変わらずスマホゲームに興じている。悠馬はサッカーチームの練習に出かけている。リビングの床には悠馬の脱ぎっぱなしの服が散らばり、テーブルの上には修一が読んだ新聞や雑誌、飲みかけのペットボトルが置きっぱなしだ。昼食の片づけが終わったらリビングも掃除しなきゃ。そうえば、またペットボトルのラベルもはがさなくちゃ。お風呂掃除もまだやっていないし。それに比べて修一はのんきなもんだ。真帆は洗っていた皿をガチャリと水切りカゴに入れた。
「修ちゃん、ヒマならお風呂掃除やってもらえる?」
「え?今忙しいんだけど」
修一はスマホから顔も上げない。
「スマホいじってるじゃん」
「対戦中なんだよ」
対戦中ってお前の仕事は戦士なのかよと真帆は心の中で毒づく。
「ゲームやってるだけじゃん。私はお皿洗い終わったらそのとっちらかったリビングも掃除しなきゃいけないし、やることたくさんあるんだから」
「それが主婦の仕事だろ。休みの日ぐらいのんびりさせてくれよ」
「主婦には休みの日なんてないんだよ。平日はPTAの役員とかいろいろあるし、土日だってずっと家事やってるし」
「そんなに家事って大変か?洗濯機なんてスイッチ入れれば終わりだろ」
「洗濯物だって自動的に整列してクローゼットに入ってくれるわけじゃないからね。毎日私が干して畳んでるんだよ。ペットボトルのラベルはがして分別してとか名前のない家事を入れたら一日の主婦の作業量はものすごいんだよ」
普段はモヤモヤした気持ちを抱えながらも「自分は主婦なんだから」と飲み込んできた言葉がいっきにあふれ出した。
「主婦の労働を給料に換算すると年収1000万円らしいよ」
こないだテレビのワイドショーで聞いたこの言葉は、真帆の心の支えになっている。
「ハハハ、それはどうかな~。主婦の仕事って、やるもやらないも自由なことが多いし人によるよね。毎日家じゅうをぴかぴかに磨いて、料理も伝説の家政婦みたいなやつを毎日作ってたらそれぐらいかもしれないけど」
そんなこと分かってる。分かってるけど、でも、そうでも思わなきゃやってられないんだよ。
そんな言葉がのどまで出かかったが、真帆は「まあね」とあいまいに笑って洗った食器を棚にしまう。
(第5話に続きます)
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