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「胸を張って走れ」第1話 (note創作大賞2024 お仕事小説部門)

【あらすじ】
専業主婦の真帆は自分で稼いでいないことに引け目を感じ、自分に自信が持てないでいた。せめて日々の家事を頑張ろうと努力しているが、「主婦の仕事」をどんなに頑張ってもどこか虚しい。鬱屈した気持ちを抱えた真帆は、ある日突然フルマラソンの大会に出場することを決める。そして絶対に完走なんてできるはずがないとばかにする夫の修一と、ある賭けをする。
ろくに走ったこともない30代の真帆はフルマラソンを走りきれるのか?そして走ることで希望を見出せるのか?外で働くだけが仕事じゃない。悩める主婦のお仕事小説。 

第1話

「見えない家事ってまさにこういうことだよな…」
 徳田真帆はリビングのゴミ箱に無造作に放り込まれたいくつものペットボトルをよりわけ、ラベルをはがしていく。
「ねえ! ペットボトルはこっちのペットボトル入れに入れてよね」
 真帆はリビングのソファに寝ころんでスマホゲームに夢中になってる夫の修一とリビングのテレビを占拠してゲームに夢中になっている息子の悠馬に声をかけた。
「うーい」
 小学6年生の悠馬は返事とも何ともつかない声で反応したが、夫はゲームに夢中すぎて聞こえていないのか返事もしない。
「パパ、聞こえた?」
「あ?」
「ペットボトルはペットボトル入れに入れて!」
「うーい」
 修一の返事は悠馬とまったく同じトーンだ。まったくうちの男どもは…。苦々しい気分で真帆はラベルをベリっとはがし、プラごみ用のゴミ箱に投げ入れる。そうこうしているうちに夕食のグラタンが焼けた。
 グラタン皿に取り分け用のスプーンをつけて食卓へ運ぶ。3人分の取り皿を戸棚から出し、フォークとスプーンをテーブルにセットする。レタスを洗ってプチトマトと一緒に盛り付け、サラダの入った小皿を並べる。真帆が忙しく夕食の準備をしているというのに、夫と息子はまったく動こうとしない。料理が勝手に出てくると信じて疑わないようだ。いいご身分だ。どこぞの国の王と王子かよ。いつもは気にならない日常の光景なのに今日はなぜか真帆のイライラは 止まらない。今朝、飼い猫のマロンに4時半に起こされてご飯を催促されて寝不足だからだろうか。
「ああ、腹減った!いただきまーす!」
 育ち盛りの息子は猛然とグラタンにがっついている。今日のグラタンは缶詰のホワイトソースを使わず、玉ねぎと小麦粉を弱火でじっくり炒めてソースから作った。もっと味わって食べてくれよ…と、悲しい気持でみるみる皿の上から消えていくグラタンを眺める。
 
 去年、フルタイムでパートをしていた時は時間に追われていてレトルト食品やスーパーのお惣菜をよく使っていたが、パートを辞めて専業主婦になってからはなるべく日々の食事は手作りをしようと真帆は心がけている。仕事を辞めて時間ができたのもあるが、自分で稼いでいないという負い目もある。
 
 修一に至っては美味しいとも何とも言わず、黙々とグラタンを口に運んでいる。あまりに虚しくなっていきたので真帆は、
「やっぱりグラタンソースは缶詰より美味しいよね」と言ってみた。
修一は間抜けた声で「うーん、あんまり分からないけど、そんな気もするなあ」と答える。悠馬は「グラタンより、このチキン美味い!」とグラタン皿の付け合わせに出したチキンの照り焼きにがっついている。
「スーパーのお惣菜だけどね…」
 真帆は誰に言うともなしにひとりごちる。
 あっという間に空になったグラタン皿を見て、今日はわりとうまくできたみたいだと確認する。夫に「美味しかったよ。いつも美味しいごはんをありがとう」と言ってもらうなんて真帆はとうの昔にあきらめた。
 
 夕食を食べ終わると修一はリビングのソファに戻ってスマホゲームの続きを始め、悠馬は自分の部屋に引き上げていった。2人の食べっぱなしのお皿を片付けながら、真帆は自分が透明人間になったような気分になる。
「まったく…」
 ため息をつきながら皿を重ねていると、ふとリビングでつけっぱなしになっていたテレビの音声が耳に入ってきた。
「気持ちよい秋晴れの中、横浜マラソンが開催されました」
 テレビに目を向けると、今日、開催されていたらしいマラソン大会の様子が映っていた。見慣れた赤レンガ倉庫の前の道を大勢の人が走っている。沿道ではチアリーダーの格好をして小学生の女の子たちが軽快な音楽に合わせてキラキラしたポンポンを振りながら踊っている。女の子たちに向けて「ありがとう!」と手を振るランナーたち。
「楽しそう…」
 真帆はテレビに目が釘付けになった。
 
 学生の頃、学校でやっていたマラソン大会はちっとも楽しくなかったなあ…。嬉々として走るテレビの中のランナーを眺めながら真帆は思い出す。
真帆の高校では競歩大会という名のマラソン大会があり、男子は35キロ、女子は25キロ、河川敷のランニングコースを延々と走らされた。真帆が所属していたハンドボール部の顧問は頭の中まで筋肉が詰まっているような体育会系の教師で、
「学年で50位以内に入れなかったら、はみ出した数だけ校庭を走れー!」とペナルティを部員たちに課した。勉強も運動もとにかく普通だった真帆は学年の女子130人中62位で校庭を12周も走る羽目になった。同じ部活のミチコやメグミと「あいつはモテないストレスを生徒をいじめて発散してるドS変態教師だ」などと、さんざん顧問の悪口を言いながらケーキの食べ放題でひとり30個以上食べてうさばらしをした。
 それなのにこの人たちは42.195キロをみずから走ろうしている。しかもこんなに楽しそうに…。
 
 真帆はもともと走るのは嫌いではなかった。高校の部活を引退してから大学受験を経て、大学ではESSに入って運動とは無縁の生活をしていて気づいたら10キロも体重が増えてしまって焦り、ダイエットのために週に2回ぐらい家の周りを走っていたこともある。早朝の凛とした空気を吸い込みながら走っていると、始めは少し重い体がだんだん軽くなっていく。走り終わる頃には気持ちまで軽くなっていて、なんだかその日1日がうまくいくような気がしたものだ。
 若い頃の真帆は周りの人の顔色が気になってしまうたちで、小さなことをくよくよ考えてしまったり、言いたいことを我慢したりしてしまうことが多かった。でも、1日の始まりの朝に走るとその日は快活な自分でいられる。そんなこともランニングをしていた理由だった。
 しかし、ランニングの効果で4キロぐらい体重は落ちてそこで満足してしまい、週2回のランニングはやめてしまった。
 
 ランニングをしていたことなんて今のいままでずっと忘れていたというのに、そのマラソン大会の映像を観たとたん、十数年ぶりに記憶の底からいろんな思い出が沸き上がってきた。そしてなんとなく思った。
「久しぶりに明日、走ってみようかな」
 家族に対するうっ憤も、走れば晴れるような気がした。
 
 翌日、月曜日の朝、夫を会社に息子を学校に送り出してから、真帆は走りに行くことにした。外へ走りに行くなんて何年ぶりだろう、と真帆は過去の記憶をたどってみた。息子が小さい頃、散歩に行った時にあちこち走り回る息子を追いかけ回して走っていたことはあるがそれはノーカウントだろう。
「そう考えると10年以上ぶりだな…」
 
 大学を卒業して旅行会社に就職して営業事務の仕事に就いたばかりの頃、慣れない仕事に追われ、人生で初めて出会う上司と呼ばれる人種との接し方や、社会人として求められるふるまいも分からず、不器用な真帆は毎日がいっぱいいっぱいだった。のんきに暮らしていた学生の頃とのギャップに戸惑い、心が疲れて自分でもコントロールできないほどに落ち込んでしまうことがあった。そんな時、学生の頃に走っていたことを思いだし、再び走り始めたのだ。
  出社する前、朝5時半に起きて、朝焼けに染まった雲の間から大きな光の玉のような太陽が昇ってくるのを見ながら走っていると、腹の底から力が湧いてきて「よし、やったるぞー!」という気持ちになるのだった。走ったところで急に仕事が出来るようになるわけでもなく、急にそつなく人付き合いができるようになるわけでもなく、何ひとつ自分をとりまく状況も変わらないのに、朝、会社に行く前に走った日は、なんとなく1日元気な自分でいられるのが不思議だった。
 入社して半年もたつと仕事にも会社の人間関係にも慣れてきて、走る「願掛け」は必要なくなった。

 旅行会社で3年間働いて、営業部の先輩だった修一と結婚して会社を辞めてすぐに悠馬が産まれたからあれから走ってないなあ…と、真帆は久しぶりに自分の人生を振りかえってみた。
  走ること自体が10年ぶりなので、まず何を着て良いのか分からない。クローゼットの一番下の引き出しをごそごそ探してみる。去年、ママさんバレーに駆り出された時に着る物がなくて慌てて近所のシマムラで買った安物の黒いジャージのズボンと、「I LOVE TOKYO」と胸にでかでかと書かれたTシャツをひっぱり出して着替えた。I LOVE TOKYOはちょっと恥ずかしいので、その上にいつも家で着ているちょっとくたびれたグレーのパーカーを羽織る。
もちろんランニングシューズなど持っていないので、いつも履いている紺色のスニーカーを履いて玄関を出た。
「近所の人に見られたら恥ずかしいな…」
真帆はうつむき加減に住宅街を早足で通り抜け、公園に続く遊歩道を走り始めた。
 
 朝の通勤通学の時間帯は駅へと急ぐ人たちがたくさんいるこの道も、朝9時半になると歩く人も少なく、のんびりとした空気が漂っている。並木道では近所の保育園の保育士さんが子供たちを散歩させている。
 暑くもなく寒くもない春の日差しが気持ち良く、またそんな中をランニングしている自分にちょっぴり酔っているせいもあって、真帆は跳ねるように軽いリズムで足を運ぶ。しかし、あっという間に息が上がってきた。
「つ、疲れた…」
 まだ家を出てからたいして走っていないのに、とにかく体が重い。真帆は「地球には重力があるのだ」ということを実感した。浮かれて飛ばしすぎたのかもしれない、と思ってスピードを落とす。
 
 公園までは2キロぐらいの距離だが、まだ半分も走っていない。ぜえぜえと息を切らしながら、もはや歩いてるのか走っているのか分からないぐらいの速さで走っていると、どこからか、
「母ちゃん、頑張って!」という声がした。
 母ちゃんと言っているが息子のものではない中年男性の声だ。声の方を見ると、道端に停まっているトラックの運転席から小太りの中年男性がニヤニヤしながらこちらを見ている。
「ほら、頑張って母ちゃん!」
 明らかに小ばかにした様子に、真帆は恥ずかしさと怒りがこみあげてきた。「うるせえクソおやじ!」と真帆は脳内で悪態をつき、怒りにまかせて公園までダッシュした。
 公園のベンチに腰掛けてひと息つきながら先ほどの出来事を振り返ってみる。まあ、確かに息子もいるし自分は母ちゃんなんだけど、きっとあのおやじは「おばちゃん」という意味で言っていたんだろうと思うと真帆は再び怒りがふつふつとこみあげてきた。
「まだ30代半ばなのに、おばちゃんとは失礼な!」
 しかし、家に帰って鏡に映る自分の姿を見てみると、ヨレヨレのパーカーに安っぽいジャージを着て、肩までの髪をひとつにひっつめて結んだその姿はどう見てもおばちゃんだった。こんな姿で息を切らしてぜえぜえと息を切らして重い足取りで走っていれば、確かに疲れたおばちゃんにしか見えないだろう。
「まず見た目からやり直さねば!もう母ちゃんとは言わせない!」と真帆は鼻息荒く心に誓った。

https://note.com/miunao_hassy/n/nf4e28000ed56

 



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