生活保護とアル中詩人(9)
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この連載記事はあと1回で終わることにした。じぶんの嗜好する文学の、射程範囲外を狙って書きつづけてみたものの、やはりじぶんに合わない、やや露悪的な作文で終わってしまっているというのが答えだ。たしかにウケは抜群によかった。日頃なら2、3の反応で終わってしまうのが最大19までいったのだから。しかし私生活の暴露などいかにもゲスな話題で、ひとを引き寄せるのは限界がある。次回分を更新してあるていどの成果がでたら、それ以前の投稿は非公開にしてしまおうと考えている。なんだか、きゅうに恥ずかしくなってしまったんだ。生活保護もアル中詩人も夢や幻に過ぎなかったんだよ。
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きのうは映画『Cloud』を観た。黒沢清は初体験だ。もちろん、『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』の口直しのつもりだった。詳しい感想はべつの投稿で書くが、あの泥臭い、素人同士のガン・アクションが『ベイビーわるきゅーれ』のスタイリッシュな活劇よりも、生々しくおもえた。脚本の穴やリアリズムを求めてるひとは往年の日活アクションで免疫をつけたほうがいい。翻弄される主人公、謎の組織、銃撃──といま書いている脚本に通ずるところがあって、なんだか安心した。おれは大丈夫だと。
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このまえ久谷雉氏に「詩論集を期待する」というようなことをいい、あちらからは「まとまった分量の詩論は書いていない」と返された。そしておなじくじぶんも分量のある詩論は書いておわず、短篇集に入れてしまったと返した。詩壇にいる人間にむかって、おれのような半端物が声をかけるのは無礼だとおもったが、そのままにした。だいたいXのプロフィールに某誌に掲載されたとか、どこそこで詩集をだしているとか、そういった詩壇に於けるヒエラルキーに寄りかかって自己紹介する人物がきらいなのである。まあ、おれも最近プロフに「森忠明に師事」などと書いてしまってるのは手落ちとしかいいようがないが。
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そもそもこの一連の投稿は「無職詩人」氏に触発されて書いたものだが、おれはかれとちがってコミュニケーションが巧くない。だからこそ、「孤高の詩人」だとか、「誇り高い」などとおだてられたが、ほんとは寂しいし、ひとと出逢いたいとおもっている。「出逢いのない場所」で詩を書くことはひどく不毛な気分である。局地的なヒットを飛ばす「無職詩人」氏に較べ、おれは屈折しているうえに粘着質のある人格だ。そんなおれを避ける人間がいたって不思議じゃない。むしろ、あたりまえだ。おかげでblogの読者が減った。かれのように匿名じゃないから、物乞いをできないし、ユーモア度数も限られている。
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ところでアルコール依存症者の平均寿命は、50~54歳だそうだ。それにくわえて発達障碍と、生涯独身が喰っつく。左利きもだ。あとは想像にお任せする。ともかく、あとの5年ぐらいは好きなことをして生きたい。短歌に絞るのはそれからでもいい。いまは脚本と音楽だ。最後の金を酒に遣った。工賃の入る25日までは文なし。じぶんを救いがたいとはおもっている。
今月は食糧撰びで失敗した。copilotの生成したダイエットメニューは調味料に金がかかりすぎた。そんなものは味覇とグリーンカレーペースト、そして蜂蜜、リンゴ酢があれば大体できる。だのに、生姜とか、黒胡椒、岩塩、タバスコ、レモン果汁、大蒜だのと揃えたばかりにイッてしまった。凝ったことはしないほうが徳だ。40の鰥夫男が料理に拘る必要はない。不味くないものを喰えればいいはずだ。優雅に生きるのは作品が売れてからでいい。それに今月から急に物価が上がった。やってられない。
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先週金曜日に『missing person's redio』の最終回収録をツイキャスでやった。いずれ動画になるだろう。三浦果実氏とひさびさにトークセッション。田中一村の展示を見たというかれは一村が生前無名であったことを尊いかのように話されたが、おれは内心穏やかではなかった。このまま無名で終わりたくなかった。死後の名声なんて信じていないからだ。ちかいうちに父に600万が転がり込んでくるという話をした。三浦氏は12月にこちらへ来て、父とのあいだに入ってくれるという。本気なのだろうか。父は電話で売却物件の片づけをしたら、¥10,000+αをやるとはいっていたが。
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40になると、真剣でいるのかがむつかしい。かなりの場合ふざけている。つぎつぎと親父ギャグがでる。根っこが不謹慎な人間だから、よけいにたちの悪いジョークが頻出する。緊張感がつづかない。その反面、他人の反応が好意的でなくともいいようにおもえる。是が非でも反応が欲しい。その内容はどっちでも赦せる。おれはつぶいやく、「あんたはそうおもう、それでいい。でも、おれはちがう」ってな。
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伝統的な文章力を磨くことと、じぶんの文体を持つことは互いに矛盾しない。おれはそうやって書きつづけてきた。「作法文章」と揶揄されたこともあった。でも、多くの詩人を自称するものが碌な散文が書けないなかで、おれは散文作品を多く書いても来たし、そのなかの少数は詩論や歌論なのである。題名に【詩】だとか、わざわざ加える人間の感性はわからない。詩であることによって赦されるものなどないし、詩であると名づけることによって守られるべき自我などないからである。なにかと弱者の側に立とうとする、《繊細なわたくし》の詩人たちをこの10年ぐらい、おれは排撃して来た。それは無意味だった。かれらのナルシスはSNSに増殖しつづける。死を伴わないペストだ。「次世代短歌」なんか好例といっていい。
詩はその作品が現実原則から空想現実への接合部になったときに始めて、その意味を持つ。此岸から彼岸へと読者を往来させたときに詩的感動は生まれるとおもっている。傲慢かも知れない。おれはそれを意識してずっと作品を書いてきた。そして小説が去り、詩が去り、短歌もあらかた片づいて、いまは脚本と音楽をやっている。師匠がいう、「器用貧乏と酒で多くのやつが潰れた」。その辞も理解はする。しかし残り少ない人生だ。どんなジャンルであれ、ひとつは成果を残したい。それがおれの願いだ。最後にはたぶん絵と短歌に絞ってるさ。
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きょうは5時に眠って、8時25分に起きた。眠気はない。今回は喋りすぎ。最後まで読むようなひとはたぶんおれとおなじで寂しいのだろうとおもう。いまは、Lou Reed & John Cale"Work"を聴いている。ウォーホルに云わせれば、われわれがやってるのは”創作”じゃない、──”仕事”だ。あしたから作業所も再開。わずかな金のために提出物をつくっている。もしも、あなたが精神障碍者で、神戸で居宅保護を受けたいというのなら、なんらかの相談ができるかも知れない。しかし、文学についてはなにひとつ答えることなんかできない。敬白
作品リスト(販売ページのリンクから全文立ち読み可能)
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blog『みずから書き、みずから滅びるってこと』
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