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いのち程、安くて高価なものはない

 命はどこから来るのでしょうか。
 
 人は、どんなに些細な命であったとしても、命そのものを造り出す事は決してできません。
 クローン技術で1996年に羊が生成されてはいますが、これは新しい命ではなく、既存の生命体の複製であって、命を造り出したわけではない、のだと思います。

 私達が日常茶飯事行われている出産に至る経緯を考えますと、それは人が命を造り出しているように思われがちですが、この仕組みは人間が造ったものでもありませんし、人間が操作しているものでもありません。人はこの仕組みや内部構造に関与していません。

 もちろん、異性間における交わりを肯定しない事によって、命の発生を調整する事は可能でしょう。ですが、交わった事によって発生する命の仕組みは、人間が考えた事ではありませんし、人間が作り上げたものでもありません。それは人間に、もともと備えられている仕組みで、人が増加する為に設計されている、不思議なシステムです。

 人が設計したものではないのに、その、人が設計したものでない仕組みの中から、人の命が発生しています。
 私達はそれを当然の事実として認識していますが、新しい命が造り出されている事実は、本当に不思議な仕組みと現象です。人間から人間が発生し、誕生し、そしてそれに生命があり、人としての人格もあるのです。
 まさに驚愕なる奇跡としか言いようがありません。

 その命の誕生に、お金は不要です。只です。
 手持ち現金が無くても、通帳に残高が無くても、資産も無く、仕事も無く、食べる物がない程、困窮していたとしても、命を造り出す仕組みから来る現象は、人の命を無償で発生してしまいます。
 
 もちろん、現実的出産にはそれなりの経費が必要です。出産にも、その赤ん坊である子供を育て上げるにも経費がかかります。それは社会の仕組みがそうなってしまっているからです。
 ですが、人が命を、この世界に発生させる事実に、経済的要求や条件は必要とされません。命は「ただ」なのです。こんなにも高機能な人と言う命の存在を、人が只で発生させ、それらは、無償でこの世界に存在するようになるのです。

 現在、人類は機械を設計しデザインし、人により近い存在を造り出す事に必死です。その為に使う費用は莫大です。人は自らの力で人を造り出そうとしていますが、いくら経費を計上したとしてもそれは不可能です。人が人を造る事は出来ません。その一部さえも人は造り出す事ができません。全世界の富と引き換えにしても、人が命を自ら発生させ、得る事は出来ません。

 ですが、人が人を誕生させるその経費は無料です。こんなにも多機能で高性能な人を作成するのに、一切経済的必要性がありません。一体誰がその経費を負担しているのでしょうか。一体誰が、何が、人を造って存在させているのでしょうか。

 それが人でない事は間違いないでしょう。なぜなら前記の通り、人は人を、そして命そのものを造り出す事が出来ないからです。どれだけ経費をかけても、決して人が造る事が出来ない命が、どこからか無償で発生しているのです。

 人の存在が始められてから、人は人を破壊する事に対しては貪欲で敏感でした。最初の殺人は聖書に出てきますが、残念ながら身内同士での殺し合い、しかも兄弟殺しです。誰にも造れない命ですが、その命は誰でも簡単に奪う事が可能です

 アダムが最初の人で、アダムとエバの間には二人の息子が誕生しています。
 その子供達は、兄がカインで、弟がアベルでした。二人は、人類最初の殺人者と、その被害者になりました。
 原因は妬みでした。そんな些細な気持ちの動きから、価値ある命の存在を簡単に壊してしまう事実が、最初の殺人、つまり「人殺し」として聖書に鮮明に記録されてあります。

 現代における殺人の動機として一番多いのは、怒りや嫉妬、裏切り等による報復心が圧倒的です。
 勿論怒りの原因も色々あるでしょう。しかし、何かの要因で、人が怒ると、人はその怒りをぶつける対象となるべき相手を傷つけたり、殺したりしてしまいます。それによって、自分の気持ちの整理と安定を図るのです。
又は、自分の行為を阻止しようとする力を排除するために人を殺してしまう場合もあります。個人の身勝手な目的遂行の為に、人の命が犠牲になるのです。

 その他、人の命が失われる原因としては多岐に渡って考えられますが、病気や事故以外を考慮に入れますと、最大規模は戦争でしょうか。

 それは、もはや個人個人の戦いでは無く、民族、国家単位での戦い、明文化された合法的殺し合いです。そして、その戦いの兵士達は消耗品のように扱われます。
 争っている国の兵士が不足すると、別の国、民族から兵士達を調達します。そして命を消耗していくのです。決して人では造れない命が、モノの様に失われ消費されて行きます。

 その戦いは、機械同志では成立しません。戦争は機械で行うゲームとはなり得ません。どうしても、国籍のある人間同士が戦わなければならないのです。その為に人の命が使用されます。
 兵士達も政治的思考と規約により国を越えて調達されます。同盟国における協定によって、人の命が調達され、戦争の為、消費されてしまうのです。

 どうして機械同志の戦いではダメなのでしょうか。勝敗をつけるのであれば、それはゲームでも良いのではないでしょうか。

 ですが、戦争は、恐ろしい事に、生身の人間が血を流して戦わなければなりません。それが戦争です。そして、人の命は社会情勢や政治家達によって安価な消耗品として捧げられ、消費されてしまうのです。
 人が殺されるから、人の命が失われるから、それは戦争として成り立っています。機械同士では戦いや戦争になりません。戦争には命の犠牲が必要なのです。機械やゲームには命はありません。

 人の力では絶対造り出す事の出来ない命であるにも関わらず、大儀や名誉や権力闘争の為に、いとも簡単にその命が消費されている現実。なんと言う矛盾でしょうか。こんなにも簡単に人の命が失われてしまっても良いのでしょうか。

 命は誰にも造り出せない程、高価で尊い存在です。その価値、真価は、図り知る事が出来ない程です。命を得るのに、何を差し出せばよいのかさえ、人には想像出来ません。それほどの価値ある存在が、同じ命を持った存在の意思によって、無残にも簡単に消費されてしまう場合があるのです。

 この現代、聖書の冒頭に記録されているカインがアベルを、妬みによって殺した殺人事件から始まり、国家間紛争による大規模殺戮が、人の良心を越えて、簡単に、当然のごとく行われています。。

 かつて推定600万人もの殺戮を意味もなく受けた民族があります。600万人は当時民族人口の37%にも及びます。それは戦争とは関係ない民族でした。その民族の命は、価値の無いゴミのように扱われました。殺す者達は、飽きる程の命の処分を、まるで仕事の様に毎日行わなければなりません。被害者となった民族は死を嘆く暇もありません。気づいたら、無価値なモノとして、理由も無く殺されているのです。その中で一番恐ろしい事実は、殺す側にも、その同じ命があると言う事です。

 人には命を造り出すことが出来ないので、その価値を知る事が出来ません。ですから、憎しみや妬みや自分の目的遂行の為、邪魔となるべき存在を消し去る事を平気で行います。人が人を簡単に殺してしまうのは、自らの命の価値を推し量る事が出来ていないからです。

 もし人が、自分の命のように、他者の命を考える事が出来たら、争いは止むでしょう。ですが、憎しみに駆られた人は、命の価値を蔑みます。命は、造り出せない高価なものですが、それを自分個人の為、利用する者達にとっては、無価値な只のモノにしか過ぎません。

 人のいのち程高価なものはこの世界に存在しません。どんなにあがいても、この全世界でも命を造り出す事が出来ない無限の価値があるのです。ですが、人はそれを無価値なものに変える事が出来ます。

 命発生の代金は誰が払っているのでしょうか。人は戦争を行い、お金をかけた兵器を使い、命を消し去ります。人は、人をこの世界から消し去るのに、費用をかけるのです。
 これは人が行う行為の中で、もっとも愚かしい行為です。命が命を奪う行為、これ以上の愚行、蛮行は他にありません。

 命ほど安くて高価なものはありません。人の命は何よりも尊く、宇宙よりも重たいのです。ところが、それは、自分だけを愛し、命を憎む者達にとっては、邪魔な存在でしかありません。
 命の取り扱いを正しく行える人は、自分の命の価値を知り悟っている人です。命をぞんざいに扱う人は、人として、命ある者としての思慮に欠け、すでに自分を、見失っています。

 命の価値は計り知れません。ですから人は、他人の命を奪って、自分の利益にしようとするのでしょう。命の発生は只なのですが、只ゆえに、莫大で無限の価値があるのが命です。
 命ほど、高価なものと認識されながら、同時に、安価に扱われているモノは他にはありません。そして、その命は、現実では独裁者の利益の為に、価値あるものだと認識されながら、価値が無いモノとして消費され、廃棄されてしまいます。独裁者は、戦略に於ける命の価値を十分知りながら、それに対する正しい判断を行えませんし、行いません。
彼らは自分の為にこう言うでしょう。
「命ほど安くて高価なものはない」


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