「誰も死んだことはない」
「誰も死んだことはない」
これは今生きている人達の事です。
死は一方通行ですから、そこから回帰した人は誰もいません。死を見てきたと言う人はいません。死とは何かを確認した、と言う人もいません。人は死ねばそこから出て来る事ができません。
と、言う事は、死を知っていて、今生きている人は、誰もいないと言う事です。みんなまだ生きていて死を経験していません。これを読んでいる人は皆生きています。
ある人達は死とはこういうものだ、と説明して下さいます。ある人達は、私は死後の世界を見てきた、と説明して下さいます。ある人達は、死は無い、と説明して下さいます。でも、死んだ事のない、今生きているはずの人達がなぜそのような説明をする事が出来るのでしょうか。
死は、時間がそうであるように一方通行です。私達がその結果を見てしまえば、再びこの世界で自らの口を開き、死について語る事はできません。私達は死の中に存在してしまうと、そこから後戻りする事は出来ません。死から抜け出せる人はいません。死は一方通行です。
私達は現在から未来にだけ向かう時間の中にいます。その時間の流れを遡る事が出来ない様に、死も同じです。時間の流れから距離を置き、外側から時間を客観視する事は出来ないように、自らの死を外側から客観視する事は出来ません。
繰り返しますが、死は、経験すれば、誰もそこから抜け出せません。
ですから、生きている者であれば、どんなに明朗な人であったとしても、どんなに聡明な人であったとしても、どんなに知性の優れた人であったとしても、どんなに力のある人であったとしても、どんなに愛深い人であったとしても、どんなに富を持った人であったとしても、一度経験した死の位置から移動する事ができません。自分の死を外側からは確認できません。
つまり、この生きている世界で、どのような優位な状態、立場にある人だとしても、誰一人この世界で死の説明を行う事は出来ないのです。
人は死ねば、自分の死を経験し、死が何か、についての実体験上、理解を及ばせる事は出来ます。ですが、もうこの世界には戻れませんから、誰かに死を説明する事は不可能です。
死と人との個人的関係は基本的にはそういう事になります。
死は不可解です。もちろん身体的不全、例えば病気を患えば身体機能不全となり、その人は死を経験してしまうかも知れません。その理由に年齢は加味されません。死に至る病は肉体の使用経過期間に関わらず、生きている者達に万遍なく、容赦なくおよんでしまい、経験させられてしまいます。
事故はどうでしょう。身体が死に至らしめられるもうひとつの要因は、体になんらかの形で異常な力が加わった場合による肉体の物理的破壊を経験した時です。これにも年齢等は考慮されません。誰にでも、どんな年齢範囲でも、身体破壊による死は有効で、なんらかの死に至る要因を受ける事により、その人に死が適応されてしまいます。
それらは突然、あるいは想定される予測内であったとしても、死ぬ、と言うタイミングは唐突に、個人の身に降りかかってしまいます。
療養中、入院していたとしても、していなかったとしても、健康体であったとしても、危険な活動をしていたとしても、極普通の生活をしていたとしても、生きている者には万遍なく、その人の、その時が来れば、私達は、決して後戻りできない死を経験してしまいます。
この不思議な死に対する解答を持たないまま、人は死ぬまで生きます。
誰からも、誰にも説明出来ない死を確実に経験する者達であるにも関わらず、何故か、皆死ぬまで生きています。死んでこの世界から確実にいなくなる者達なのに、死ぬまでこの世界で生き続けるのです。人のみならず、生命ある存在すべてに、死が宿命として紐づけられています。死と命は、実は同じ意義を持っているのかも知れません。
逆に考えると、本来死んでいるものたちに、いのちが、今一時的に与えられていると言う事なのかも知れません。本来は存在しないはずの者達に、今、生きていると言う現象と体験が与えられているのかも知れません。
それは、私達が普通に考えている様に、生きていると言う事が絶対的大前提ではなく、死ぬ、あるいは死んでいると言う事の方が優先されていると言う事です。つまり、生より、死が先なのです。
ですから、生きていると称されている存在である私達は、仮に、一時的に生きているだけなので、生きると言う事に対しても、その意味としては希薄な感覚しか持ち合わせておらず、まして、死そのものを説明する事など、到底不可能だと言う事なのかも知れません。
私達は現在、生きている事を当たり前として存在しています。これは当然の事実です。生きている事実を前提とし活動し、存在を認識し、確認しています。しかし、私達は、実はその前提の上に成り立っているのではない。
と言うのが、逆説的真理なのかも知れません。
私達存在の理由と前提は、恐らく死が先です。終焉が先です。終わりが私達存在の大前提となっています。ですから、私達は生きていても、次の瞬間には死ぬかもしれないと言う大変な矛盾に出くわします。
私達は生きている事、生きていると言う事態を大前提としてしまっていますから、死ぬ事に理解を及ばせる事が出来ずに、何故死ぬのか、と言う解答無き矛盾に苛まれています。
逆に「なぜ生きるのか」に対する明確な解答もこの世界にはありません。なぜなら、すでに私達は死を持ったものとして存在しているからです。この大いなる矛盾の上、矛盾の中に、私達は解答無き答えを探し続け、生き、生かされ、いつかは死ぬ事になります。
人はある時誕生し、この世界での意識を持ちます。しかし、その理由や原因について何一つ知らされてはいません。そしてある時、この世界から出て行かなければなりません。その理由についても何の説明もありません。どんな名門校であったとしても、名誉教授であったとしても、誰もそれを説明できる人はおらず、その学科もありません。「生きてる科」と言うものの学術的存在は、この世界にはありません。
科学で、生きている仕組み、構造を説明する事は可能かも知れませんが、では、何故生きているのか、についての理由と原因を解明する事は出来ません。後世に名を残す程の資産や名声があったとしても、誰も、私的個人の存在理由についての説明を聞く事も出来ず、誰かから教えてもらう事も出来ません、誰も、何の説明をする事も、何の説明を受ける事すら出来ません。
突き詰めて考えますと、本当に不思議な、生きては死ぬと言う現象を、私達は毎瞬間経験していることになります。そして、その答えを知れるのは、自分の死の瞬間だけです。なぜ死ぬのか、なぜ生きていたのか、を知る事になるのです。
私達は、本当は死人なのかも知れません。そして、死人が生きていると言う夢を見ているのかも知れません。本当は既に死んでしまっているから「誰も死んだことはない」と言えるのかも知れません。
私達は本当の意味で「生きる」と言う事を体験したいものです。
いつかは、死ぬ事のない「いのち」を持って生きたいものです。現状の、いつ訪れるのかわからない自分の死を考えず、悩まず、意識せず、怯えず、恐れずに生きる事が出来るのでしょうか。自分が、この得体の知れない死に、何時、巻き込まれてしまうのかを、心配をせずに生きる事が出来るのでしょうか。
今、生きていてこれを読んでくださっている人は「誰も死んだことはない」のです。
ですから死について正確に知り、語り、答える事は出来ません。
「誰も死んだことはない」私達は確かに現状生きている、と考える事は適切で当然な事なのですが、本当に生きているのでしょうか。
実は「誰も生きているモノはいない」と言うのが、この世界での正確な事実なのかも知れません。なぜか、死人が生かされています。
そして、その矛盾や意味を考えさせられている私達は、まだ「誰も死んだことはない」のです。
生きていると思われるこの僅かな時間のうちに、この世界に来て、この世界から出ていく意味を知れば、それが私達を本当の意味で生かすのだと思います。
その人は、すでに死んでいたのが生き返り、そして、もう二度と死ぬ事はありません。
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