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人命より鋼材節約や工期短縮を最優先にした欠陥輸送船「戦時標準船」~ 「海上護衛戦」シリーズ⑤

本シリーズの「総論」はこちらに書いています。

太平洋戦争前に策定された日本の「第1次戦時標準船」計画は、戦後の使用も考慮していたので平時の貨物船の設計規格とあまり変わらず、優秀船ではあったが工期短縮もごく僅かで戦時急増には不向きだった。

また、「標準」とは言うものの、貨物船だけでも総トン数650トン~10000トンまで10種類もの型があった。その上、各型にもいくつもの細かなバリエーションがあり、建造効率を阻害した。計画速度は9ノットから19ノットとされたが、様々な要因により実際にはカタログスペック以下の速度しか出なかった。

「海軍艦政本部」は、1943年5月に工期短縮と使用鋼材の節約に特化した仕様である「第2次標準船計画」を決定して、7月から建造に着手した。

「海軍艦政本部」の要求は、以下の通り。

目 標                                ①建造期間の大幅短縮                        ②使用素材の徹底的節約                         ③速力低下容認(8~10ノット程度)と航続距離の増大                        ④艦寿命の短縮容認(機関1年・船体3年) 作ってもすぐに撃沈されるから、耐久性を求めても無駄になる。                               ④標準よりも多く積載できるようにする(過積載による弊害は無視)                  

方 策                                ①二重底や凌波性を高めるシア(艦首や艦尾の反り返り)の廃止      ②作業工数の削減(要するに「手抜き」の公認)              ③できるだけ手間のかかる曲面をなくして船形を直線化(速力や燃費の面で不利な船型)                              ④経験の蓄積がそれほどないブロック工法、電気溶接の大幅採用     ⑤使用鋼板を出来る限り薄くし(強度低下)、艤装機器、装備も簡略化(クレーンや電動ポンプさえない船もあった)                       ⑥浸水の拡大を食い止める隔壁も簡略化して削減            ⑦劣悪な居住性の容認(居住スペースを大部屋化した上で縮小する→貨物積載スペースを増やす)                             ⑧引渡し前の「水漏れ検査」の簡略化(要するに少々の水漏れは大目に見る)   

この間、中年以上の熟練工までが次々と招集され、造船所は慢性的な人手不足に陥っていた。その穴埋めとして約3割の工程を動員学徒や未熟練の女性、囚人などに担わせるようになった。熟練工不足に起因する作業ミスや手抜き工事が横行し、船の性能や安全性の更なる低下を招いた。

結果と影響
これらの結果、工期は大型船で平均3か月となり、「第1次戦時標準船」の半分から3分の1程度に短縮された。また、「第2次標準船」の鋼材重量比は重量トンあたり「第1次」の半分以下に減少した(0.54→0.217)。   

確かに「第2次標準船」は、「艦政本部」の狙い通り工期の短縮や材料節約には成功した。しかし、そのために支払った代償はとてつもなく大きいものだった。

①船舶建造の常識である二重底の廃止はまさに致命的で、ちょっとした座礁や攻撃による僅かな損傷などが即命取りに繋がった。同時に実施された隔壁の削減による抗堪性の低下なども加わり、雷撃されると一瞬で沈没し、救命ボートを降ろす事など不可能だった。陰で「轟沈型」と呼ばれた由縁だ。

船員は勿論、下部船倉に定員を超えて押し込まれていた完全装備の陸軍兵士たちは、逃げ出す暇もなく船と共に海没する他はなかった。勿論、積載していた兵器や弾薬・食料、石油など大量の物資も一度に失われた。
                                  ②凌波性を高めるシアを廃止したためもろに波を被りやすくなり、時化や嵐での海難事故を招いた。
                                  ③主に小型標準戦が装備した規格品の低馬力レシプロエンジンや焼玉エンジンは、大型船の蒸気タービンエンジンに比べて安価ではあるが出力が出ず、過積載も加わり常にノロノロ航海を余儀なくされた。低速標準船は、米潜水艦が撃沈スコアを稼ぐ格好の獲物だった。          

④未熟だった溶接技術、薄くて低品質の鋼板、工期に追われた粗製乱造によるミスや手抜き工事、水漏れ検査の簡略化などのツケは大きく、航海中のエンジン故障や爆発、水漏れによる浸水、船体が途中で折れる折損事故なども多発した。
                                  ⑤小規模な造船所でも建造可能だったため「第2次標準船」では419隻と最も多く建造された小型の2E型(870トン、カタログ値約9ノット、実際には7ノット程度)は、使用者側から「粗製乱造の極みで、外洋では使い物にならず。」と酷評を受けるほど。中でも2E9型などは「浮いて動いてくれさえすればよい。」とまで言われる有様だった。

2E型岩城丸-550x300
2E型戦時標準船

戦時標準船は、簡易工法による大量生産品ではある。しかし、動かしているのも乗船しているのも生身の人間なのだから、戦時だからこそ求められる最低限の生存性や安全性能を担保する必要があったはずだ。

しかし、設計を担当した「海軍艦政本部」は、非常時だからと当時の「船舶安全法」や「鋼船構造規定」などを無視。外洋船としての最低限の安全基準さえ満たさない欠陥船を平然と建造し続け、その運用を民間の海運会社に押し付けた。

戦時標準船の沈没による1隻ごとの犠牲者数は、4千名以上2隻、3000名以上3隻、2000名以上12隻、1000名以上31隻と、他国に比べても異常に多く、ここにも日本軍の「作戦優先人命軽視」という人権無視の思想が如実に表れている。

「日本海員組合」が今でも「日本の戦争には協力しない。」と言っているのは、海軍が輸送船を守らず、戦時動員で徴用された14万人の船員のうち実に46%が犠牲になったためだ。

死亡確立は、ほぼ2分の1。しかし、これは戦争全期間の平均。末期にはその確率が格段に高まっていたであろうことは容易に想像がつく。

暗号が解読されていたため、昭和19年8月以降日本輸送船の米潜水艦との会敵率は100%を越えていたのだ。船員たちにとって徴用船に乗ると言うことは、死出の旅である「海上特攻」と何ら変わりがなかった。


結局、「戦時標準船」は鉱石運搬船、油槽船なども含めると敗戦までに1次2次合計1340隻(338万総トン)が建造された。しかし、この間の輸送船舶の全喪失量は800万トン以上に達し、焼け石に水だった。

計画立案から実際の建造まで例のごとく後手後手の泥縄式。「第2次標準船」が竣工し始めたのは、制海権も制空権も完全に失った昭和19年以降。完成時期があまりにも遅すぎた。

また、日本海軍は輸送船を本気で守ろうとはしなかったし、その能力もなかったため、いくら作っても作る傍から次々に撃沈され、まさに沈められるために作るようなものだった。

欠陥船ばかり大量に建造し、膨大な数の船員や乗船兵士を欠陥船と共に海没させた「第2次戦時標準船計画」は明らかな失敗で、かえって犠牲者を増やすだけの愚策だったと言う他はない。

太平洋戦争開戦前、日本海軍軍令部が開戦後の「輸送船舶喪失予測」を誤った事は致命的で、高級参謀たちの無能ぶりは万死に値する。もっと的確な予測が出来ていれば負けるにしても少しはましな戦い方が出来たであろうし、犠牲者も少なかったかもしれないのだ。    

これに対し、米国は戦時標準船の貨物船をほぼ「リバティ型」(7180トン、航行速度11ノット)とその改良型である「ヴィクトリー型」に絞り、大戦中2712隻(1944万トン)を完成させた。

「リバティ型」にも欠陥があり、200隻以上が設計に起因する原因で沈没または使用不能になっているが、それでも日本よりは遥かにましだった。(敗戦後、GHQは危険すぎると残存日本標準船の使用を禁止した。) 

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        大量建造される「リバティ型」の船台

より高性能の「ヴィクトリー型」も438隻(333万トン)建造され、大戦中だけで実に3150隻(2277万総トン)の戦時標準船を完成させた。

建造日数は当初3か月程度だったが徐々に短くなり、最終的には平均1か月半程度にまで短縮された。最盛期には1日に3隻が竣工し、中には起工から竣工まで僅か7日間という信じられない記録を達成したケースさえある。

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量産される「ヴィクトリー型」戦時標準船

この結果、日本とは正反対に建造量が喪失量を遥かに上回り、米国の輸送能力は年を追うごとに増大して行った。

日本でリバティ船と同クラスの大型船は2A型だが、僅か121隻(合計80万トン うち32隻はタンカー型)しか作られていない。

このため、戦時標準船1隻あたりの平均トン数は米国の約7200トンに対して日本は2520トン(しかも「第2次標準船」は全て欠陥船)に過ぎず、両者の大きな隔絶は即日米両国の「戦時輸送力=継戦能力」の差に直結した。

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