映画ノート⑤ 『太陽がいっぱい』~ 支配階級から下層民に与えられた「寓話」
アラン・ドロンが最も輝いていたのが、名匠ルネ・クレマンが監督したこの作品。
地中海の青い海、青い空、そして、アラン・ドロンの青い瞳。 大富豪の息子フィリップ(モーリス・ロネ)を いつも羨望の眼差しで上目遣いに見つめる一文無しのリプリー(ドロン)の暗い野望を秘めた目力のすごさ。
後から読んだパトリシア・ハイスミスの原作ラストは、映画とは真逆で唖然としました。
原作のラストを改変し、逮捕のシーンまで見せずに、イスキア島の明るい夏の陽光のもとでリプリーの暗い末路を暗示するルネ・クレマンの余韻の残る対比的演出は、映画史に残る名シーンでした。 そして、ラストの、情感を一気に盛り上げるニーノ・ロータの主題曲。
もっとも、別の醒めた(かなりひねくれた?)視点からこの映画を観ると、何となく上から目線が感じられるのですが、これは私だけでしょうか。
背景にあるのは、今も昔も変わらない格差社会という資本主義の宿痾。
映画版は、支配階級から「お前ら下層民が分不相応にのし上がろうなんて余計なことを考えると、こういう痛い目に会うんだぞ、おとなしく身の丈に合った生活をしていろ!」と言われているような気がしないでもないのです。
これは、よく似たテーマのジョージ・スティーヴンス『陽のあたる場所』(原作シオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』=傑作)にも当てはまります。
原作では完全犯罪を成し遂げ、リプリーの高笑いと共にレジスタンス成功。対して映画では、凡ミスから最後に悪事が露見してレジスタンス失敗というような。
支配階級から下層階級に下された、とてもよくできた「寓話」と言ったら、皆様興ざめでしょうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?