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置かれた場所で咲く、ということは
「合わない職場に無理して居続ける必要はありません」
「自分の尊厳を傷つけてくる人とは距離をとりましょう」
こういう考え方が浸透してきた現代、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に批判が集まるのは、致し方ないことだろう。
この言葉は、一見すると「耐えることが美しい」というニュアンスで読めなくもないからである。
ちなみに私自身は、辛かったり、合わないと感じる環境に無理に身を置く必要はないと思っているので、冒頭で述べたような風潮については同感だ。
しかし、私は「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に励まされた。
私が思うに、「置かれた場所で咲きなさい」と、「辛い環境でも耐え続けなさい」はイコールで結ばれない。
私は先日、このような記事を投稿した。
私は今、毎日がとても充実していると思うし、幸せだとも感じている。
しかし、この心境に至るまでには、色々と葛藤があったのだ。
この記事の中でも触れたが、私は大学時代から20代の前半、鬱で何も行動できなかった。(強迫性障害の症状が強く出ているときもあった)
この時、自分が鬱ということにも気付いていなかったので、学校や会社を休むという発想はなく、だけど無理矢理に回している生活はボロボロだった。
大学時代、私が何も出来なかった期間に、周りの同期たちは人生でその時期にしか出来ない様々な経験を積んでいた。
また、そんな彼らの中には、有名な大企業に入った人も少なくない。
あの時、何か出来ていれば、今とは全く違った人生が待っていたのかもしれない。
そう思うと、毎日が本当に辛かった。
誰が悪い訳でもない。
しかし、だからこそ、そのやり場のない怒りとか悲しみで、押しつぶされそうだった。
私の目に、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉が留まったのは、それでもなんとか過去を受け入れようと、試行錯誤していたときだった。
それまでも、きっと何処かでこの言葉を見たり聞いたりすることは、あったはずだ。
だけど、その意味が胸の中にじんわりと浸透までしてきたのは、この時が初めてだった。
これまでに、私は何か行動を起こしてきて、あるいは起こしてこなくて、その結果の積み重ねが″今″に集約されている。
この環境に身を置くことを、もともと自分で望んだつもりは無かったかもしれない。
だからと言って、100億円を積んだところで、過去を塗り替えて、現在の私を形作っているものを、作り変えることは出来ない。
宇宙の果てまで走ったところで、失った過去と、それが突き付けてくる現実からは、逃げ切れもしないだろう。
あるいは、例えばこれからもの凄く頑張れば、大金持ちになれるかもしれない。
だけど、そういうことじゃない。
ある時期の経験を通してだけ手に入れられる世界と言うのは、今の私がどんなに努力したって、掴み取ることはできないのだ。
もし、鬱になっていなかったら。
もし、鬱だともっと早く気付けていたら。
もしかしたら、私が置かれていたのは、今とは全然違う環境だったかもしれない。
それでも私は、今、立っている場所で精一杯を生きていくしかないのである。
「置かれた場所で咲きなさい」
だから、これは、どう足掻いたところで変えられないものを抱えていたとして、それでも誇り高く生きていきなさい、という、とても気高いメッセージだと私は思っている。