大島渚監督のこと
確実に鈍器になるであろう分厚さを誇る「大島渚全映画秘蔵資料集成」を3ヶ月かけて読了。
読了というより走破という感じ。
1996年の春だったと記憶している。
日本映画監督協会に入会して初めての酒席。
関西部会の新年会。
「座頭市」の田中徳三監督、「十三人の刺客」の工藤栄一監督、将軍と呼ばれていた山下耕作監督‥‥眩しくて顔をまともに見られないような巨匠連の末席に31歳、まだ1本しか監督していない私が。
頼りにしていた唯一の知り合い大森一樹監督がいない。黙って正座しているしかなく。
そんな私に理事長大島渚監督が「白羽さん」と声を掛けてくれ「若い人が来て下さって、有難う」と敬語で話しかけて下さった。
何と応えたのか記憶がない。大島監督は続けて「おいくつですか?」と。
私が年齢を答えると、大島監督は横にいた若松孝二監督に「31だって」と言うと若松監督は「俺が31の時はそりゃなぁ‥」と話し出す。「愛のコリーダ」の監督とプロデューサーの会話の俎上に上がっていたその時、大島理事長が開会の挨拶を促されて席を立った。
若松監督の言葉はそこまでで途絶えてしまい、開会となった。
31の時の若松監督、どうだったのだろう。
1966年「胎児が密猟する時」67年「犯された白衣」か。31歳若松孝二はフルスロットルで爆走していたんだな。
開会の後、再び大島監督は私を正面に呼び、色々質問される。
デビューのきっかけ、最近はどういう題材に興味を持っているの?など。
憧れの人とお話し出来て、もう幸せの絶頂のような感覚だった。
その後も何度かお目もじする機会があり、ウケる鉄板ネタもあるがそれはまたいずれの機会に。
さて鈍器のような本書で最も刮目したのは大島監督の筆跡。
メモ、ノート、脚本。自筆のその字は意外にも小さく、丸く、可愛い。
原稿用紙のマス目の真ん中あたりにちょこんちょこんと綴られている字。
崩したような字は殆ど無い。
あの時のとてもジェントルなその姿勢そのままに、「世界の映画の最前線に立つ」映画に秘められていた繊細な内心が顕れているように思えてならない。