Mouthwashingがゲームであることの利点
人間は見たものをそのまま見ているのではなく、脳内で補って見ている。
それがただの四角と小さな丸であっても、これまでの経験から推測し、それをドアだと認識することができる。
実際に描かれているもの以上のものを、私たちは自分の頭の中で補って見てしまう。
凄惨な場面をありありと見てしまう。
だから、このゲームは荒いポリゴンで作られていることに意味があるのだと思う。
冒頭から急に何の話かとお思いだろうが、思ったことを書き留めておかないと忘れそうだったので書いておいた。
ここからはわたしが感じた「Mouthwashingがゲームであることの利点」について書いておく。
ゲームであることの利点1 視野
そもそもなぜゲームであることの利点などと言い出したかというと、
「まるで映画のようだ」という意見を見かけたからである。
確かに映画にしてもいいくらい凝ったシナリオである。
登場人物たちも魅力的だし、映画化してもとても面白いものになるだろう。
しかし、やはりゲームだからこそ出来ていることがある。
ひとつやふたつじゃない。
わたしはそう思って、「Mouthwashingがゲームであることの利点」をまとめることにした。
そのひとつが「視点」である。
ゲームには、主に「一人称視点」と「三人称視点」がある。
一人称視点の場合、プレイヤーは操作している人物の姿を見ることができない。あたかも自分がその場にいるかのように、目線を動かせば周りの様子が見えるが、自分自身の姿を見ることはできない。
三人称視点の場合、プレイヤーは操作している人物を俯瞰で見ることができる。
そのため何が起こっているかの把握がしやすい。
では「Mouthwashing」はどちらなのかというと、
一人称視点である。
途中で三人称視点に切り替わることもあるが、それは限定的だ。
このことがこのゲームにおいてどんなに大切な役割を果たしているか、
ゲームをプレイした人ならばわかるだろう。
ここから先はゲームのネタバレになるので注意してほしい。
プレイヤーはジミーとカーリーの視点をそれぞれ操作する。
その際、特に説明はないので、唐突に表示される
「衝突から〇日」
などの情報から自分は今、いつの段階の誰を操作しているのかを推測する必要がある。
そしてやがて、この地獄を生んだ原因でもある衝突事故の原因がジミーであることを知る。
すっかりカーリーのせいだと思い込んでいたプレイヤーは驚き、そして騙されていたことに気づくのだ。
ゲームの冒頭、一番最初にプレイヤーがすることは、
コックピットでレバーをいじって船を天体にぶつけることだった。
このことが物語の始まりであることに疑いはなかった。
しかし「誰が」操作しているかは知らなかった……意図的に隠されていた。
それを可能にしたのが一人称視点だ。
もし映画だったら、一人称視点だったとしても操作している人物の腕くらいは映り込むだろう。
そうでないと不自然だから。
しかしゲームならそれは不自然じゃない。
そういうものだ、とプレイヤーは勝手に納得してくれるのだ。
ゲームであることの利点2 操作
当然ながらゲームというのはプレイヤーが操作することによって進行する。
操作しないと進まない。
それがどんなに嫌なことであっても。
プレイヤーはしたくもないことをさせられる。
四肢を失って包帯まみれでうめいているカーリーの口を開け、痛み止めを放り込む。
大けがをしているダイスケにマウスウォッシュをかける。
スウォンジーを銃で撃ち殺す。
カーリーを運ぶ。カーリーの足を切る。
カーリーにカーリーの足の一部を食べさせる。
……。
それらをなぜ、プレイヤーにやらせるか?
それはまあ、苦しみを味わってもらうためだろう。
ゲームであることの利点3 主人公=プレイヤーであること
プレイヤーは自分が操作している人物を主人公だと考える。
そして多くの場合、主人公を自分の分身だと感じる。
別にそんなことないですという人もいると思うが、
自分が操作している以上、ある程度の思い入れというものが発生すると思う。
それがうまく働いていると感じたのは、ジミーという人物に対するプレイヤーの評価を考えたときだ。
ゲームを始めて間もなくは、プレイヤーはジミーを「絶望的な状況下でも希望を捨てずに駆けずり回る不運な男」だと思う。
しかしだんだんと実態が明らかになってゆく。
そしてジミーが何をやらかしたのかを知る。
こうなるともう、ジミーに対して同情的にはなれない。
しかし、どうだろう? 心の底から軽蔑するだろうか?
まあ、するか。
ともかく個人的には、軽蔑しつつもその心境を全く理解できないわけではないと感じた。
友人は優秀な船長で、自分は副操縦士。
そして自分たちはクビ。しかし船長はそのまま船長を続けられる(※)。
それなのに友人であり船長であるカーリーは「これでいいのか、自分の人生は。これが全て?」などとほざいている。
ジミーの憎しみも羨望もわたしは理解できる。
もしこれが映画だったら、事実がわかったとたんに
「ジミーのクソ野郎!」
と思うだけだった気がするのだ。
プレイヤーとしてジミーを操作してきたからこそ、
彼の苦しみも怒りも、から回りしている余計で無駄な努力も知っているからこそ、
クソ野郎と切り捨てられないのではないかと思う。
自分自身の分身として、一瞬でも心を寄せてしまったから。
しかしアーニャのことを考えるとやはりクソ野郎、とは思う。
以上が、「Mouthwashingがゲームであることの利点」である。
こんなことが可能なのか、やはりゲームは素晴らしい、とわたしは感じている。
おまけ グッドエンドについて
グッドエンドなどない。
あるのは「グッドエンド」という名前の実績だけだ。
わたしはその実績を偶然に解放したので以下に書いておこう。
実績「グッドエンド」の解放条件は、
墓場でスウォンジーに10回以上殺されること。
おそらくジミーの精神世界である墓場では、スウォンジーが斧でジミーを殺しにかかってくる。
銃で撃って応戦しないと殺されるのだが、この操作がけっこう難しい。
銃をかまえていると走れないし、銃口を向けると操作がひどくゆっくりになる。
素早く振り向くのも難しいので、背後を取られるとあっという間に殺される。
わたしは操作が下手なので、意図せずに10回以上死んでしまったのだ。
しかしそれが「グッドエンド」とはどういうことだろう。
まあそうかもしれない。
あの場面でほんとうにスウォンジーに殺されていれば、最悪のエンディングを迎えなくて済んだかもしれない。
生き残ったのがスウォンジーとカーリーだったら、まだなにかしらの希望はあったかもしれない。
……ないかもしれない。
まあ、以上です。
たくさん苦しむことができたよ。
※ 「カーリーは船長を続けられる」と書いたが、後に発表された公式のQ&Aでそうではないことがわかった。
ポニー運送は倒産のため全員解雇。
だがカーリーは特別に表彰される予定だったとのこと。
(2024.11.02追記)