湿気、置き時計
目が覚めると、眼前の世界は明らかに今までのそれとは異なっているように感じられた。
僕の肌を覆った鬱陶しい湿気をたっぷりと含んだあの空気も、あれほどまでに必死に僕を外とつなぎとめようとしていたセミの煩わしい喧騒もない。
空気は明らかに清潔であり、小さな虫たちによって震えてもいなかった。
ベットの脇に置いてある時計に目を向ける。
針は10時ごろを指す。
正確な時刻は必要ではないし、そもそも混乱した頭で何も考えたくはない。
昨夜、ストロベリー・マルガリータを冷蔵庫から引っ張り出して飲んだ。
噛みしめによる頭痛を和らげて、ぐっすりと眠りたかった。
小説のページを繰りながら、ゆっくりと時間をかけて、体にしみ込むのを確かめた。
あるいはその甘ったるい苺の風味が、時間をかけて飲むことを促したのかもしれない。
小説は、ギリシャとトルコの国境の地中海に浮かぶ小さな島を艶やかに、魅力的に描写した。
空の高い位置にたたずむ太陽が燦々と純然たる砂浜をきりきりと照らし、月光がごつごつとした岩場に凝った影をつけていた。
たびたび、ストロベリー・マルガリータの甘味が島のコテージから望む青々として鮮やかな海原のイメージをめちゃくちゃにした。
ゆっくりとアルコールが体に染み込み、僕の頭蓋骨にまで達した。
体が熱っていき、少し汗ばんできていた。
ナイキのTシャツとハーフパンツがその汗を吸うことによって、幾らか鬱陶しさを和らげようとしてくれている。
次第に、脳が熱を帯び始め、頭痛が少しずつではあるが、立ち去っていった。
最後にもう一杯飲むと僕は立ち上がり、シンクにグラスを置いた。
そして洗面所で歯を磨いた。
そのまま小さな窓から差し込む月明かりを頼りに、階段を上り、二階にある寝室に向かった。
そして、僕はベットに入った。
地中海に浮かぶオール付きの小さなフィッシングボートを思い浮かべると、意識がだんだんと大波のように揺らいでいき、最終的に寝てしまっていた。
そして目が覚める。
そこは何かが終わった-あるいは始まったのかもしれないが-世界だった。
僕は、僕を丸々昨日に置いてきてしまったように思えた。
手始めに、家具の配置やテレビのリモコンの所在、棚に積まれた本など目についたものの配置を細部まで点検した。
昨日となんら違いは見られなかった。
何かの思い過ごしだろうか、僕は物事の区別がつかなくなってしまったのだろうか。
しかし、何かが変わってしまった感覚は、ますます膨れ上がっていく。
この世界の変容を確かめる手段として体を隅々まで点検し、この体が僕のものであるのか、はたまた何か別のものに置き換わってしまったのかを確認したい気分だった。
まずは手だ。
その両手を眼前に移動し、政治家が足繁く通う料亭の板前が、繊細な包丁を丁寧に研ぐときのように注意深く観察した。
やはり、そこには違和感があった。
手を構成する分子AとBの順番が、BとAに入れ替わってしまったのかもしれない。
明らかに、何か別のものにそっくりそのまま入れ替わってしまっているみたいだった。
うんうん、僕の直感は正しかったんだ。
昨日と今日では明らかに連続していない。そこに連続性は確かめられない。
そこにはジャズが流れていた。
僕はそれほど音楽には詳しくない。
ただこの曲には聞き覚えがあったから、すぐに「モーニン」だとわかった。
それにしても全く気がつかなかった。
どこでこの音楽が発生しているのか見当もつかない。
それはあくまで自然に、血液が僕の体を音もなく巡るようにそこに存在していた。
音に集中する。
それは連続的であり、個々の分子が正しい場所に美しく重なり合い、存在していた。
なんとも奇妙な感覚だった。
今の君と対極にあるのが音楽なんだよ、君はバラバラで連続的でなく分子の配置までもがでたらめなんだよと言われているみたいだった。
音楽は昨日までの世界の象徴であり、僕は今日の世界の象徴なのだ。
僕は行動を起こさなければと思った。
多分、僕はこの音楽の出所を突き止めなければいけない。
そうしないことには、僕がどうして昨日に僕を置いてきぼりにしてしまわなければいけなかったかが、この先絶対に解明できないような気がしたからだ。
僕は僕の部屋から一歩足を踏み出した。
その一歩は、コロンブスがインドを目指して出航したときのような、意義深い前進でなければいけない種類のものなのである。
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