可愛がっていたパイ毛が抜けた話

右のパイ毛が抜けた。
湯船に浸かっていた時のことだった。

お湯でぬくぬくしていたら、ふと水面にゆらゆら浮かぶ黒く細長いものが目にはいった。
おや、こいつは。

私はやにはに右のパイを見やった。
あ、やっぱり!

右のパイ毛が定位置から姿を消していた。

そのパイ毛は私にとってほぼ唯一のパイ毛である。

全長七cmほどの、一直線状の規則的に縮れた黒く太い毛。
正確に言うと左にはなく、右の乳輪に二本生えているが、そのうち一本は細くて短いため存在感が薄いのだ。
悲しいかな、影が薄くて認識もされないと褒められもせず苦にもされない。宮沢賢治のなりたかった理想はこんな感じだったのだろうか。


いつもの場所を飛び出して、お湯の中で自由に揺蕩うそれを見ると、私は長年連れ添った彼氏がある日突然行方不明になってしまったような錯覚がした。

酸いも甘いも共にしたパートナーの唐突な裏切り。物も言えぬ衝撃。一言くらい言ってくれれば良いじゃない。どうして黙って出ていったの!?

さながら悲劇のヒロインの気分だ。

それくらい私はこのパイ毛に思い入れがあった。

自分に自信がなくて綺麗になろうと躍起になっていた時分の話だ。
二十歳の頃だった。

成人になった(当時の成人年齢は二十歳だった。これだけでもう年季を感じる)私は全身脱毛をして、ピカピカツルツルの地肌を手に入れようとしていた。勿論乳輪も光照射の対象だ。

マジだった。本気で消しにかかった。
5回コースを契約し定期的に通うことで、毛という毛が残酷にも駆逐されようとしていた。



一年経って全ての回数が消化された。
私はそれなり脱毛の効果に満足していた。痛みが怖くて蓄熱式にしたためツルツルとまではいかなかったが概ね満足だ。

但し、ある部分だけを除いて。

そう、パイ毛である。
こいつは依然としてしぶとく、しかも力強く、天に向けてその身をすっくと伸ばしていた。

私は頭を抱えた。
実は乳輪は全身プランに含まれておらず、わざわざ別料金で追加して、蓄熱式ではなく熱破壊式で脱毛したのだ。機械だって看護師さんと相談して効果がありそうなものを選んでもらっていた。
つまりやれることはやったのだ。

それなのにこいつは生き残った。医療用脱毛機器の、専用にカスタマイズされた高出力の光さえ掻い潜った猛者である。そんなつわ者にコースを消化しきった私ができることは今何もない。

また脱毛代を貯めよう。
ふてぶてしくも頑なにそこに居座るパイ毛と共に、意気消沈しながら生活を送った。

(今思い付いたのだが、もしかすると、細い方の毛は照射されていなかったのかもしれない。存在感が薄すぎて。)


それから数年、色々あって全身脱毛をする余裕がなく、場面は去年へと移る。

パニック障害やら謎の首の痛みやらニートやらを経て、私は自分のことが好きになり始めた。
同時に、パイ毛が急に愛おしいもののように思えてきた。

ずっと人生を共に歩んでくれている。
どれだけ突き放そうが(力ずくで抜こうとするとまじで痛くて抜けない)、どれだけ本気で殺しにかかろうが、ずっと私から離れずにいてくれている。

しかも、ほら、良く見てみろ。

パイ毛も下の毛も太さや硬さはほぼ同じだし、形状だってチリチリしているが、両者には決定的に違うところがある。

下の毛はポケモンのアンノーンみたいに不規則で奇っ怪な形をして、両端が全く別のベクトル上に存在している。
下の絵のDとかGとかSとかがよく類似している。?だってそうだ。


引用https://www.pokemon.jp/special/forme/zukan04/zukan4-1.html


それに対し、パイ毛、こいつはソバージュのかかった髪のように規則的に並んだちりちりで、端と端とが同一直線上にある。

からだの中でこの形をしているのは唯一この一本だけだ。まるで俺の個性はこうだ、と主張しているようではないか。だから湯船を泳いでいる毛を見て直ぐにどこの毛か分かったのだ。
これがもし下の毛だったら、「この縮れ具合は恥骨の何cm隣の臍から何cm下に生息している……」など分かるはずがない。やつらは群れて没個性だ。

こうして雨降って地固まる。まるで何年も連れ添ったパートナーを得たような気持ちになった。


それが突然の背信行為である。

私を置き去りに自由を謳歌している。

いやぁ~分かってはいるんだよ、こんなの所詮は只の毛だってこと。たかだか毛なんかに人格を持たせて感情移入したところで、毛なんだから抜けるに決まっているじゃーん!

と思う私と、

ふ、不届きもの!ひどいわ!結構ショックなんだからね!消えるのなら跡形もなく消え去ってよ、中途半端に私から離れて楽しんでいる姿なんて見せつけないでよ!

と思う私が共存している。

この矛盾した感情が複雑な乙女心というものなのだろうか。


今は主のいない右胸の空白に、前者の私は「まぁ、また一ヶ月くらいしたらにょきって頭を見せてくるよ。だからそう気を落としなさんな」と宥めてくれる。後者の私も、前者の私の手をとりながら「そうね」とどこか寂しさを否めない様子で頷く。

そいつは忘れた頃に私の元に返ってくる。
そして(たぶん)七ヶ月ほどの期間を共にして、またいつの間にか忽然と消失するのだ。

これまでだって、寄せては引く波のように、何回も消えては戻ってきた。大体一年に一回くらい、そいつが定位置から消えていることに気付いている。
そう、よくあることではあるのだ。

きっと、いつもは本当に気がついたらいなくなっていて、どこでどう抜けたかすら感じさせずにすっかり無くなっているのに、今回は初めて抜けた直後の姿を見てしまって気が動転してしまっただけなのだ。

こうやっておらんくなってたんかい!


予想通りもう一ヶ月もしたら、また生えてくるだろう。どれだけ痛めつけても雑草魂が失われない強い子だ。

その時は小さくなってしまったけど新しくなったその姿に安堵して、喜んで迎え入れると思う。
そしてまた人格を持たせて語りかけるのだと思う。

今後残りの全身脱毛をしても、愛着ゆえにこの子を脱毛しようとするかどうか分からない。
もし光照射を当てなかった暁には、ちょっと癖の強いけどお互い絶対に離れない、良きパートナーとなるだろう。


おわり


(人格を肯定する場合、抜けたその子と新しく生えてきたその子が同一人格と見なして良いのかどうかは、テセウスの船よろしく、また別の話である。)





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