アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(10/12)

(10)身体の解離を生きる

國分がスピノザを引きながらたどり着いたのは、我々人間のすべての行為は能動態でも受動態でもなく、中動態として生成される、という結論でした。

そのうえでスピノザ/國分は、結果として生成された「食べる」という行為が「食べたい」私によって十分に説明可能であること、つまりは自分の本質を十分に表現していることを理想としました。國分はこれを、スピノザの表現を借りて「自由」であると言います。そして自由であるための方法として提案するのが、すでに書いたように「ちょっとまてよ、俺はほんとうにラーメンなんて食べたいのか?」とじっくり考えることで、不覚にも「食べさせられている」私、外的刺激によって「強制」されている私に気がつくということでした。

そうは言いながらも國分は、我々は完全に自由であることはできないとも言っています。『中動態』の最後はこんな風に締めくくられています。

完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。
われわれはそのことになかなか気がつけない。自分がいまどれほど自由でどれほど強制されているかを理解することも難しい。[xviii]

この結びは、ここまでの議論の前提を覆す意味を持っています。つまり、國分は、プレイヤーとキャラクターを統合することなど、本来的に不可能だと言っているのです。我々はこの解離した身体を、解離したまま生きねばならないのです。

しかしそのうえで、國分はやはりゲームの主導権を取り戻すための方法を提案してもいます。つまり人間は、気がつかぬうちにプレイヤーとして行動したり、キャラクターになって行動したりするけれども、その解離に、その往復運動に「なかなか気がつけない」ことのほうが本質的な問題だ、ということです。

ただし、この処方箋にはひとつ大きな問題があります。

「食べさせられている私」「これを食べるべき私」を棄却して「食べたい私」を表現することは、自由ではあっても「健康」であるとは限りません。すでに見てきたように、自己の身体が知覚できるのはごく短期的な快楽までであり、一方で「健康」が要求するのは長期的な恒常性の維持であり、両者は必ずしも一致しないからです。したがって、単に「ハーモニー・プログラム」を棄却し『中動態』を採用することは、「健康」への問いの終着点にはなりえません。

我々は『中動態』から一歩先へ進んで、自由と強制を絶妙にブレンドし、可能な限り「健康」的でありながらその営みの主導権を握ってもいるような、そういう行為生成のありかたを模索しなければならない、ということになります。

もう一度、「食べるものを選ぶ」ことについて考えてみましょう。

國分は『中動態の世界』を書いたあとで、アスペルガー症候群の当事者である綾屋紗月が書いた、「食べる」ことについての描写に言及しています。[xix]

綾屋は定型発達の「健常者」と比較し、「食べるものを選ぶ」ことにとても時間がかかります。空腹感ははじめ「ぼーっとする」「胃のあたりがへこむ」「イライラする」というばらばらの身体感覚として出現し、時間をかけてゆっくりと「おなかすいた」という意味へとまとめ上げられます。しかし、そこから「食べたい」という行為への欲求に接続されるまでにはもうしばらくかかります。
さらにはその欲求は、実際にレストランで提示された膨大なメニュー、つまり「食べられる」ものと合致しなければいけません。この欲求とメニューのすり合わせが奇跡的に完了したとき、綾屋ははじめて「食べる」ことができます。

ここで極めて中動的に行われる「食べるものを選ぶ」ことの主導権は、完全に綾屋が握っています。しかし問題は、この複雑なプロセスが完了するまでに気がつくと丸二日経っていたりする、ということです。
このやり方は実際問題としてあまりにも不便です。そしてこの不便さは、我々がすでに見てきた、情報過多に陥って「食べる」ことすらままならない市民/患者の姿によく似てもいます。

さて、この困難に対する綾屋の解決策はシンプルです。空腹か否かということとは全く関係なく、12時になったら鶴亀庵に行ってソバを食べます、という具合に、外部環境によって行為をパターン化してしまうのです。ここで綾屋は、「食べる」ことを「オートプレイ化」しています。そしてこのようなオートプレイのパターンをあらゆる局面において持っておくことで、複雑なプロセスを普段はスキップし、スムーズに生きていくことができるわけです。

しかし考えてみれば「健常者」だって、というか健常者のほうが、そういう風に生きているかもしれません…

(続きます)

[xviii] 國分功一郎『中動態の世界』医学書院、2017、pp293-294
[xix] 綾屋紗月、熊谷晋一郎『発達障害当事者研究』医学書院、2008

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