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【レビュー】ハラサオリ トライアウト『絶景』
できて間もないDance Bace Yokohamaにお招きいただき、ハラサオリさんのトライアウトを見てきました。
久々のダンス鑑賞、久々のレビューです。
やはり生はいいですね……思考が活性化しますね……。
乱文にて失礼します。
『Metawindow』
会場を訪れると、すでに白い壁にプロジェクタで映像が投影されている。
人間のかたちをした何かが、人間とは違うリズムでうごめいている。「それ
臓器について;エアコンもソーシャルキャピタルも母なる海のようなもので、
今年の夏も熱中症の救急搬送、緊急入院は多かった。
自宅でエアコンを使ってなくて、というのは定番中の定番だが、エアコンが壊れていて、というケースもけっこうあった。こういうケースでは、エアコンが治るまで帰るに帰れないということがある。まあ、壊れたエアコンを修理できないまま生活を続けて熱中症になってしまうという状況は、多くの場合そもそそも生活自体がもう立ち行かなくなっていたということを意味するわけで、
快楽について;優れたインターフェースは蟻地獄のようで、
スカイプの着信音、気持ちいいよね、あれ気持ちいいようにちゃんとデザインされているんですよ、という話から始まるユーザーインターフェースについての一連のレクチャーをむかし受けたことがあって、もう細かいことはすっかり忘れてしまったけれども、音、形、色、触感、その他あらゆる感覚的な要素が人間工学的に不快でない、できれば気持ちいい、ということがサービスにとってとても重要なんだということだけは、なんとなく頭の
もっとみる呪いについて;読みづらくてわかりにくい文体の練習
あなたは別に、この文章を読まなくてよろしい。
明確にそう意思表示することのできる文体があれば、あらゆる呪いを無視できるような気もする。
読みやすい文章、わかりやすい文章、論理的で論旨の明快な文章、そういうものを書く訓練はたぶん幼い頃から様々なかたちで受けていて、おかげさまでそういう文章(だと一応は自分なりに評価できるようなもの)は、まあほとんど無意識のうちに書くことができるけれども、これは同時に
税金の未納と医療機関の未受診はたぶんほとんどパラレルで、
チュートリアルの徳井さんがズボラが祟って所得を申告していなかった話、今風に言えばわかりみが深すぎて、もはや安堵すら感じている自分がいます。
どういうわけか、ぼくは実際よりもかなり几帳面そうに見えるらしく、完璧主義者だとさえ思われることもしばしばありますが、たとえば住民税は毎年罰則金が発生したころに払いに行くくらいにはずぼらです。
もちろん払うつもりがないということでは全然ないのですが、とはいえ
依存について;スマートフォンは臓器のように魔法的で、
依存、という表現がやや雑に扱われているなと思うことがあって、SNS依存、は比較的よいが、スマホ依存、となるとちょっと妙だな、とか、微妙なラインがある。
外来に、普段は飲まずにいられるけれど調子が崩れると飲んでしまうというアルコール依存症の患者さんがいて、先日また飲んでしまう期に入ったその人が「もうね、飲んでるんじゃないの、飲まされてるって感じなの」と教科書のようなことを言っていた。依存というのは
ネザーランド・ダンス・シアター
2019年7月、世界的なコンテンポラリーバレエカンパニー、ネザーランド・ダンス・シアター(Nederlands Dans Theater、NDT)が13年ぶりに来日した。もちろん僕は初見である。かつてカンパニーを率いたイリ・キリアンの名前くらいは聞いたことがあったが、映像を見たこともなく、今回の来日公演の存在も唐津絵理さん(@eri_karatsu)にお声がけいただいて知った。
会場を訪れると、
クリウィムバアニー「NΔU」
2019年6月21日、シアタートラムでクリウィムバアニーの「NΔU(なう)」を見てきた。普通にかっこよくてかわいいので頭空っぽで楽しめてしまうタイプのダンス公演だったが、いったい何が面白かったのだろうとあとから反芻するうちにまたじわじわ面白くなってくるというスルメ系の公演でもあった。
「クリウィムバアニー」はダンサー・振付家の菅尾なぎさ率いるダンスカンパニーで、公式サイトに「ダンサーのみならず小
ローザス「至上の愛」ROSAS ”A Love Supreme”
1. 概観
2019年5月9日から12日にかけて、池袋の東京芸術劇場にローザスがやってきた。今回の題材は、ジョン・コルトレーンの組曲 ”A love supreme” だ。
驚いた。何度でも見直したい公演だった。
それは一言で言えば、個別の身体とその個性を魅せることと、ユニゾンを踊ることがまったく無理なく共存していることの驚異だった。あるいは、身体が音楽とつかず離れず、 与えられた音=役割に没
アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(8/12)
(8)魔術としてのWatchMe
このゲームとしての「健康」という見立ては、ミァハが問うた「身体の主権」の問題をより詳細に書き直すことをも可能にします。
「身体の主権」をたとえば「我々の身体は誰のものか?」という問いに還元するとき、主に問われているのは「身体の所有権」です。身体が私のものである一方、社会のものでもありうる、という可能性が、臓器移植の社会制度化を可能にし、「公共的身体」のアイデア
アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(7/12)
(7)ゲームのように解離する
このまったく胡散臭い「健康」は、我々の身体をどのように規定しているでしょうか。もう一度『生存の外部』から、國分の批判を引いてみましょう。
「健康」という名の生存の条件を全ての物事の尺度にする考えが、消費社会のロジックから導き出されたものでない保証がどこにあるだろうか? 酒もタバコも甘いものも絶ってジムのマシーンの上でただひたすら走る行為は、どこかしら、終わることの