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初めてのクラブで欲望の迷子になる

 二十一歳の頃、人生で初めてクラブに行くことになった。クラブと言っても、サッカーやテニスに興じるような、あの爽やかなクラブ活動のことではない。夜の繁華街の片隅で、酒と音楽に酔いしれながら、日々のストレスから解放されて非日常世界に没入する、陽キャな大人たちの溜まり場の、あのクラブである。

 事の発端は、恋人と別れたばかりの私を励まそうとする女友達Nからのメールだった。彼女は最近、毎週末に渋谷や六本木のクラブに通って遊んでいるらしい。今度行くクラブは外国人が多く集まるハコで、当たり前のようにナンパが行われているのだという。「新しい出会いのチャンスだから。みっちゃん、頑張って」と、過去に一度もナンパをしたことがない、社交性ゼロで小心者の私に無理難題を突き付けてきた。果たして、私にそんなことができるのだろうか。と思いつつ、なんとなく「おっけー」と返信してしまった。

 約束の日。Nと六本木駅で待ち合わせすると、緊張している私とは対照的に、彼女はまるで近所を散歩しているかのように平然とした足取りでクラブへと歩いていく。私はもうこの時点で金魚の糞と化していた。
 クラブは地下にあり、入り口に繋がる階段の前では大柄な黒人男性が立っていた。入場する客一人ひとりと拳を合わて、何やらジェスチャーを交わしている。Nに聞くと、フィストバンプというものらしい。仲間同士のサインみたいなものだ。私の番が来た。黒人男性は握り拳を私の胸の前あたりに差し出す。……一体どうしたらいいいのだろう。私が固まっていると、Nが私を抜かし、先にフィストバンプをやって見本を示してくれた。なるほど、そうやるのか……。よし、真似してやってみよう。と、リベンジするも、見事に最初から間違えた。黒人男性から呆れたような眼差しを向けられ、仕方ないといった様子で先へと通された。

 ドアを開けると、自分の存在が圧倒的な無に近づくほどの、騒がしい音楽と声で溢れかえっていた。大勢の客でぎゅうぎう詰めで、酒や香水、汗の臭いが渦巻いている。思考が一気に黒い石の塊のようになった。
 Nが咄嗟に後ろから私の両目を塞ぐ。何かと思って指の隙間から覗くと、腰にタトゥーを入れた女性がバーカウンターの椅子に立ち、スカートをめくってパンツを披露していた。周囲の人たちは「うぇーい!」と、歓声を上げて酒を呷っている。なんだ、これは。まるで異世界に来てしまったようである。

 外国人の店員がすぐにメニューを聞きに来た。最初にチャージ代とワンドリンク代を支払うシステムらしい。私は好きな酒であるスミノフを注文したが、コンビニの数倍の値段がして驚いた。酒を持ちながら人混みをかき分けて、ダンスフロアの方へ入っていく。異物混入しました、なんかすみません……と、心の中でぶつぶつと呟きながら進む。既に汗をかき始めていた。どうやらここのクラブの店員は全員、外国人。客も半分くらいは外国人のようだ。多様な国籍の人間が集まり、ノリのよい音楽のリズムに合わせて踊ったり、酒を飲んだり、ハグやキスをしたりしている。ここなら、何をしても許されると言わんばかりに、誰もが開放感に身を任せている。Nはこういうノリに慣れている様子で、淡々と「じゃ、私は向こう行ってくるねー」と、どろどろな人混みへ溶けていってしまった。

 一人取り残された私は、戸惑いながらも、とりあえず音楽に乗って踊ることを決意した。クラブの雰囲気に圧倒されて忘れかけていたが、私は一端のしがないミュージシャンだ。毎日音楽を奏で、頻繁にライブハウスに出演し、いつもリズムにまみれた生活を送っているではないか。スミノフをがぶっと飲んで、勇気を出して踊り始める。が、近くで踊っていた外国の女性から嘲笑を浴びてしまった。そこで初めて、明らかに周囲とノリの種類が違うことに気がついた。え、クラブのノリって、どうすればいいの? 周りを見渡して動きを真似するも、私の顔は恥ずかしさで紅潮していた。やはり、私は向いていない。開始早々、もうここから逃げ出したくなっていた。

 Nから言われた「新しい出会いのチャンスだから……」という、言葉を思い出す。怯えた子ザルのようになっている私に、とてもそんな活力など湧いてこない。それに失礼ながら、周りを見渡しても自分のタイプと思える女性もいなかった。酔えば少しは気が大きくなるかもしれない。そう思って、残りのスミノフを飲み干す。酔いが回るまで、もう自分と外界を完全に分断するのだ。それしかない。自己の精神世界に深く没入するかのごとく、再び踊ることに徹する。すると、店員に声をかけられた。あれ、やはり駄目? 少しどきどきしていると、空になったスミノフの瓶を取り上げ、酒の注文を聞いてきた。私は大した金を持ってきていなかったし、何より、ここの酒はすべて値段が高すぎる。片言の英語でやんわりと断ると、ペットボトルの天然水を押し付けて五百円を払えと主張してきた。クラブのルールなのだろうか。仕方なく財布から小銭を取り出した。

 踊りを再開すると、今度はショットグラスのテキーラを大量にプレートに乗せた外国人が私のところにやってきた。顎を上げてグラスを指し、「飲め」という。ただで飲めるサービスのようなものなのか。これはラッキーだ。その場でくいっと一気飲みすると、手を差し出して「千円」と言ってきた。え……なんだこれは。これもクラブのルールなのか? 無知だった自分が悪いと、渋々金を払うと、男は受け取ったその千円札で私の頬を撫で、馬鹿にするような目をして去っていった。
 私はここまで自尊心を傷つけられたのに、怒ることさえできない自分が、物凄く惨めで悔しくて堪らなかった。ここにいるだけで、自分の存在価値は落ちるところまで落ちていく。そもそもこのクラブは、ぼったくり店なのではないか。もう絶対に金を出さないと決めた。

 それからすぐに、空きっ腹に先ほどのテキーラが効いたのか、次第に酔いが回ってきた。視界がぐわんぐわんとする中、周りを見るとみんなイチャイチャしている。酒と同調圧力が組み合わさると恐ろしい。せっかくだから私も女性をゲットして、この惨めな気持ちを解消したい、などという欲求に駆られ始めてきた。
 そんなことを考えているタイミングで、偶然に東南アジア系の女性が私に声をかけてきた。その娘の隣にいた女性が、彼女に私のところへいけいけ! と、強く推していたようである。お互い笑顔で挨拶を交わすと、それ以上何を話したらよいかわからなくなってしまった。彼女はべっとりと汗をかいて額に髪がくっついていた。彼女も私と同じように、クラブには馴染めずに困っているような雰囲気がある。その場のノリで手を繋いだり、スキンシップなんてしたら彼女を後悔させてしまうかもしれないと思った。そもそもシラフではないとは言え、私にはそんな勇気など持ち合わせていなかった。
 気づくと手に持っていたペットボトルの水は飲み干していて、店員が再び注文を取りに来た。私が頑なに断ると、店員は天然水を押し付けてきて、金を払え、さもなければ店から出ていけと怒鳴ってきた。さすがに頭にきた。彼女に「ごめんなさい」と言って、店を出て行くことにした。取り残された彼女はどう思っただろうか。彼女に気まずさだけを置いてきてしまった。

 店の外では酔いつぶれた男女が数名いた。コンクリートの地面に座ったり、寝転がったりしている。頭痛がする上に不快な気分を抱えて私も地面に座ると、隣にいた男が突然嘔吐した。私はすぐさま離れたところに避難した。すると、次に座った場所では、金髪の女性が壁に持たれて座っていた。半分意識を失っているように見える。どこから現れたのか、こちらもだいぶ酔っていそうな男が彼女に近づき一方的に激しいキスをした。その後、動けなくなっている彼女を抱えて、何やらどこかへ連れて行こうとし始めた。知り合いか? そうでなかったら、助けなければ。私は、ぼうっとした頭でそう考えるものの、まるでテレビの画面越しの出来事のように眺めていた。すると今度は、後ろから別の男が現れた。先ほどの男を引き止めている。
「おい。お前、その女は俺の連れだぞ。今、ホテルに連れて行こうとしてただろ?」「いや、違いますよ」否定する男に、引き止める男が殴りかかる。喧嘩が始まった。その間、金髪の女性は平伏するように顔を地面につけていた。
「俺らこんな街は嫌だ 東京を出るだ……」と、吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」の反対バージョンが頭を過り、我ながら馬鹿らしくなりながらも、憂鬱に浸っていると、誰かが目の前で「あっ」と叫んだ。頭を上げると、先ほどの東南アジア系の女性二人組がいた。彼女たちは帰るところみたいだ。せっかくのチャンスに何もできなかった男を嘲笑うかのように私を指さしながら通り過ぎていく。
 もう何もかも嫌だ。とりあえずNから連絡が来るまで、この場を離れよう。ふらつく足取りで街を徘徊していると、大きなクラクションが後ろから聞こえた。振り返ると、巨大なJeepの車が接近して、私は轢かれそうになっていた。運転席の窓が開き、黒人男性に罵声を浴びせられた。心臓がぎゅっと握り潰されるような感覚になる。ああ、何をやっても散々だ。欲望が渦巻く、人間の業を垣間見た夜だった。

 その後、Nから電話がかかってきた。クラブの前で合流すると、彼女は疲労感を顔に浮かべながらも満足した様子で、まだ興奮状態だった。駅まで歩きながら話を聞くと、彼女は呆れるほど、たくさんの男に口説かれたらしい。そこで少し気に入った男性がいたと言うのだ。「よかったね」と笑顔で言いつつも、正直どうでもよかった。早く帰って、穏やかな世界に戻って眠りにつきたかった。

 あれ以来、クラブには二度と行くことはなかった。店が悪かったのか、私がクラブの暗黙のルールをわかっていなかったのか。それはわからないが、とにかく私には向いていないことは確かだ。
 数年後、Nとあの日知り合った男性は結婚し、二人の間に子どもが誕生した。私があれほど嫌った場所で彼らは出会い、その結果に生まれてきた命がある。そのことを思うと、あの夜を、あの街を、すべて否定することはできないのである。



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