バフチンとの語らい……第9回読書会感想

第9回の読書会で、ミハイル・バフチンの「ドストエフスキーの詩学(以下「詩学」)」を取り上げた。ありがたいことにロシア文学を専攻する大学生の方と、ジェイムズ・ジョイスの研究をされている方、リピーターで参加されている方とで開催することができた。
私自身はドストエフスキーは2、3冊ほどしか読んだことがなく、彼の文学構造について残念ながら何か言えることはないものの、バフチンの指摘は非常に興味深い。
曰く、ドストエフスキーの小説における構造には異なる多数の声によるポリフォニー性にその特徴があり、そこに作者自身の意志、苦悩というものが重なり合っている。多数の声によって一つの意志が出来上がってゆき、結果として物語構造を作り上げてゆく原動力となっていく。そして、ポリフォニー性とは他者性をも孕むものであるということだ。この他者性というものは、単に「自分以外のもの」を指すのみならず自己内部にも存在する「異なる声」をも含む意味での他者性といえる。ドストエフスキーの小説構造はこのポリフォニー性、他者性という点でヨーロッパ文学において特異な存在であるとバフチンは指摘する。そして、ここに偶然性というファクターが加わる。
小説は当然のことながら、作者の支配する領域であるが、ドストエフスキーにおいてそれはドストエフスキーの掌中にありながらもそうとは感じさせない、「偶然性」が存在をし、それを通して読み手はドストエフスキー自身との「語らい」(これも一つのポリフォニー性であろう)を知らず知らずのうちに行っている……との構造が図らずも浮かび上がってくるのだ。
もちろん、こうしたバフチンの指摘はバフチン自身の言説に寄せるためにドストエフスキー作品を「利用している」とも言える(実際に読書会ではこの指摘が出た)が、彼の指摘はそれ自体極めて興味深いものであることは間違いない。
私はヨーロッパ文学の歴史に不安内で体系的な記述はできないのだけれど、この他者性というものは近代的なテーマであると思う。文学それ自体は内的閉鎖的な営みであるが、そこに他者という問題を持ち込むこと、「詩学」においてそうした指摘がされたこと自体が、「新しい」ことでもあるのではないだろうか。
私は読書会において、テキストを読むことは当然だが、「今この瞬間、この時代に読むこと」の意義というものも重視している。何をテキストに選ぶのかはここにかかっているといってよい。その意味で、ポリフォニー性、他者性への言及を行う「詩学」は今の時代にこそ必要な視点であると個人的に思うのである。
自己以外の他者、それ以上に自身の中にある内なる異なる声/存在というものに、私たちは果たして向き合うだけの余裕があるだろうか?
このことは他者性という問題の持つ、ベーシックな疑問として私の中にある。人とは本来曖昧で矛盾する存在であり、それが本質的な人間の資質であるといえる。だが近代社会はそうした曖昧性や矛盾というものを許容しない。人は合理的な存在であり、それを支えるものは理性であった。
それらが従来ほど意味を持たなくなった時代を私たちは生きている。人間の持つ理性への根源的懐疑というものは古典的な問題意識ではあるが、改めて「私」という存在を形作るものは自己自身のみではないことに、ここ数年で深く思い至ることが多くあった。その代表がコロナ禍であり、他者との接触を意図的に強制的に遮断をされてデジタル社会の中で、ポリフォニー性、他者性と私たちはいかに邂逅できるのだろうか?
このことはバフチンもドストエフスキーも越えて、私たちの現代的課題として横たわっているのである。

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