「時代区分の単位と文学」
先日、芥川賞受賞の2作を読んだ。「貝に続く場所にて」と「彼岸花の咲く島」である。
「貝に……」の方はコロナ禍におけるドイツと博士論文に苦労する主人公との関わり、そこに3.11で行方不明になった友人の亡霊が出てくるという内容だ。作者は東北大の院で西洋美術を専攻していただけに、作中には芸術作品が数多く登場する。また文体もしっかりしたもので、教養小説のような趣があり、「読ませる」ものであると感じた。3.11という主題をどのように扱うかがやはり注目されるわけだけれど、そこにさらに進行中のコロナ禍という舞台も追加されるわけだ。根本的な変化を余儀なくされた点で、3.11とコロナ禍は原理的には同じ次元にあるのだがそこに友人の亡霊というオカルトティックな要素を入れ込む点が興味深い。それは時に皮肉めいたものでもあり、切実なものでもあり、ある種の鎮魂としての作用も持つ。こうした構造を小説に持たせる点に、作者の手腕を見た思いがした。ここ数年読んできた芥川賞作品中でも興味深く読めたものだったと思う。
「彼岸花」の方はジェンダーというものが一つのコアになっている。作中では架空の歴史、架空のニホンというものが設定されているが、凄惨な歴史の記述から浮かび上がってくるものは「男のもたらすものは破壊と殺戮しかない」というものであり、女のもたらすものは「創造と混ざり合い」とでも言おうか。男による統治の凄惨な成れの果てに、女による統治へと人類史上初めての舵を切ったその島は、やがて混血と混在とを経て現在へと至っている。
架空の歴史と島の濃密な物語は、架空であるからこそ現実に肉薄する強力な力を持っている。架空であることを強調すればするほど、これは現実へと転じる作用も持っている。ジェンダーの設定をあえて架空の物語に託した点に、作者の意図を感じることができる。
これは本当に架空の物語であるのか?というものだ。
今回の芥川賞受賞作を読んで感じたことは、時代区分の単位と文学についてである。
戦後という時代区分の在り方について、3.11以降議論されたことを私は微かに憶えている。これからは「震災後」という時代区分を適用できるほどの威力を持っている大災害であると指摘していたのが誰だったかは忘れたが、津波とその後の原発事故というものは、戦後の日本が覆っていたものを容赦なく晒したと言ってもよい。これはコロナ禍においても同じだ。より一層希薄化する人との繋がりと、その補足装置としてのデジタル機器、それらの台頭によって意味を解体あるいは再構築された既存の価値と社会という構造は基本的には同じである。
この2つの歴史的な出来事が有する共通の構造というものに、私たちはどのように向き合っていくのか。歴史という長大な時間の文脈の中でこれらは処理されていくもので、そこに個人の極めて私的な問題や葛藤というものが対比的に重ねられていくのだ。
抗いようのない時代や文明といった巨大なものと、個人のパーソナルな体験には一方では不思議な類似性や循環性が見られる。この点に私は今大きな興味を持っている。
ジェンダーについては、それ自体がある次元でのエスタブリッシュメント化を免れていない点において興味深いものがある。男であることの権威については鋭敏であったジェンダーやフェミニズムも、自らの言説における「女の権威化」というものに対しては、ややその鋭さが劣るようである。当然、ジェンダーやフェミニズムの文脈が逆説的には「女の権威化」を推進する行動を意図的に行った歴史はあるだろう。だがこの権威化の「陳腐さ」というものについても、現在においてさらに追求されるべき点であると私は思う。
結局のところ、ジェンダーやフェミニズムの枠組みというのは既存の男女という性の二項対立・二元論的な概念設定から完全に免れるということはできていないのではないか。この意味において、女という文脈もまた権威化しさらにはエスタブリッシュな響きを帯びた単語となる。ジェンダーやフェミニズムが現代においてより深く問うべき点は、自らの内部にある権威主義、差別主義(これは特にフェミニストとされる人々それらを遠巻きに見る傍観者的な人々との間において散見されるもの、そうした現象に対しフェミニスト側が示す反応についてを指す)と、既存の性概念であると私は思う。
そうした視点で「彼岸花」を読むならば、やや陳腐なジェンダーの語りであるともいえる。破壊をしない男もいれば、破壊をもたらす女というものも、存在するからである。
総括すると、この問題は時代区分の単位と文学の在り方についての問題だ。
時代を表す事象というものは無数にあるが、私たちの認識というものを遥かに超えてそれらは起こる。それらに対して、私たちの知的活動というものはどれほど対峙ができるのか?
これには知的な生命体としての矜持が関わってくる問題である。文学の問題とは人間の問題であり、人間の持つ普遍性というものが私は大きな主題であると思う。
私たちは変わらない存在であるのか、変わることのできる存在なのか、変わるべき存在であるのか、変わることのできない存在であるのか、変わるべきでない存在なのか?
時代の複雑さとグローバリゼーション、それらがもたらした感染症の出口見えなき蔓延というもの、その対極に位置する一個人の生活というものとを比較したとき、文学という単位もまた儚い営みであると思うのだった。
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