チャイルディッシュ、幼稚性について

チャイルディッシュとは、幼稚と訳される。チャイルディッシュという言葉を見たときに、幼稚性というものへと私は考えを巡らせた。子どもそれ自体に、チャイルディッシュであると表現はしないだろう。チャイルディッシュとは、暗に大人の側に使われる。成熟と未熟とのアンバランスさを含んだものとして私はチャイルディッシュという言葉を捉えた。
「意味の形成と発達 生涯発達心理学序説」という本を読んでいて、この言葉と出会ったのだが、とても興味深い文章があった。第9章の山添正の「日本の父親について」においてである。


……たとえば「アダルト・チルドレン」ということばの広がりとともに、日本の父親の「チャイルディッシュ」な側面の肯定的な評価は高い議論の背後に退きつつあります。代わりに出てきたのは、深刻な児童虐待の問題との絡みから「大人になりきれない」「夫になりきれない」「大人の親として子どものしつけができていない」という問題です。「チャイルディッシュ」の否定的側面が「子どもがしつけられていない」という現象の広がりから日本の社会の中で社会心理現象化しつつあることへの危機感につながっています。


山添は日本男性、特に父親という存在の彼らへと焦点を当てて、欧米女性の男性観と日本女性の男性観との比較からチャイルディッシュの側面を述べる。欧米女性において、パートナーは尊敬できる存在でなければならず、この点からチャイルディッシュなつまり幼稚な子どものような男性は選ばれることはない。そして、男性自身もチャイルディッシュな側面を出すことはない。対して日本女性は男性の「可愛い」面、つまり子どもっぽい部分も肯定的に評価をする土壌がある。チャイルディッシュな側面はマイナスポイントにはならないという点に大きな特徴がある。だが、山添が主張するようにチャイルディッシュな側面の病理性が強調されるに従い、こうした男性の子どもじみた部分への肯定的評価は下がっていく。
本来成熟した大人であれば出来ること、すべきこと、望まれることができないことの奇妙さを山添は暗に示唆しているわけだ。そして、それは端的にチャイルディッシュという言葉によって集約される。精神的な幼稚さ、というものが一体何をもたらすのか。さらに山添は以下のように述べる。


……個別的な指示を出さないと意味が通じない思考様式は、原理原則に従う思考様式・行動様式の欠如を示しているといいます。それはまさに「抽象的な原理」に従って行動することができないことを意味するのです。……まさに「何らかの原理原則に従って物事を構成したり、秩序立てたり、組み立てたりする能力が欠けている」のです。「自分の理念や価値観もないので、自発的に何かしようという自主的姿勢が欠けてしまう。悪い意味での個人主義すなわち利己主義になってしまい、自分が得することばかりを考えて、全体の立場で物事を考えることができなくなってしまう」


この辺りを読んで、私はハッとなった。
こうした人間のなんと多いことだろう。1から10まで、という言葉通りの人間の多さにげんなりとしていた時だったから尚更であった。自分から情報を取りにも来ず、ただ指示だけを待ち、それなのに自分の益になることにだけは目敏くその瞬間だけは俊敏な人間の多いこと。
その背景にある知性の働きについて考えてみたこともなかった。だがこのことを考えてみるに、もっと深刻なことに気がつく。抽象的思考の未熟さの意味するところは、より深いものの見方や他者への理解、共感といったものの欠如も意味する。個人主義はより極端な形を取ることになり、それは幼稚な利己主義以外の何者でもなくなる。幼稚な利己主義の蔓延する集団は貧相だと思う。そして、結果として誰も得をしない集団でもある。
個人主義の行き詰まりと利己主義の蔓延はセットなのだと思う。そして、その背景には知性の問題というものがある。これは単に頭の良し悪しということではなく、人間としての豊かさとも不可分なものであると思う。
チャイルディッシュとは、単語以上に根深い意味を持つ言葉であると思う。


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