アレクシエーヴィチより:巨大なナラティヴに抗すること/第8回読書会感想とともに
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの「戦争は女の顔をしていない」を読みました。
折しも、ロシアが「まさかしないだろう」と予想されていたウクライナ侵攻を「20世紀手法的」な方法で実行し、事態は混沌としています。この文章を書く前に投稿した「ウクライナ侵攻に寄せて」に詳述しましたが、これはロシアという国家による侵攻(当然そうした側面もありますが)というよりも、プーチンという個人内における極めて内的あるいは私的な歴史性とナラティヴによってもたらされたものであると、個人的には見ています。それ故に、既存のセオリーが通じない恐ろしさをはらんでいるわけですが……。
国家や民族に起因するナラティヴは最も巨大なものといってよいでしょう。プーチンは過去に、「20世紀史上における最も地政学的悲劇とはソ連邦の崩壊である」というようなことを発言したそうですが、ここにはプーチン個人における「偉大なロシア/大ロシア主義」がいかに根強く彼にとって、彼自身が「ロシア人」であることの存在意義というものを決定づけるものとして作用していたのか分かります。プーチンにおける一連の軍事侵攻のセオリーとは、「歴史の針を戻すこと」のようであると私は見てて思うわけですが、そこに果たしている「ナラティヴ」の役割というものを改めて感じでいたところです。
さて、本書はオーラルヒストリーの形式に連なるもので、旧ソ連邦における特に女性たちによる対独戦における「語り」の記録です。アレクシエーヴィチ自身は、それまでの戦争に関する記述とは、「男たちの手によるもの」であり当然その語りの主体も男性たちであることを指摘します。そこに彼女は大いに疑問を抱き、戦場における女たちの声が記録にほとんどないことを問題視し「女」の目線から見た戦争というものを改めて描き直すため、本書を記しました。戦争とは土地の獲得や敵の殺戮数などで表せるものではなく、むしろ歴史の表舞台から巧妙に排除された女性たちにこそ、その本質を語るに相応しいとの意識がアレクシエーヴィチにあったことが窺えます。そして、そうした女性たちの証言を通して、勇ましさや英雄譚によって彩られた男性たちの実相というものも浮かび上がってくるわけです。ただ、証言の渉猟にはかなり苦労をしたようで、頑なに証言を拒む者や行方不明の者、怒り出す者など様々な反応がアレクシエーヴィチにはぶつかられます。それ自体が、戦争というものの複雑さと傷の深さを思わせます。加えて、戦場へと赴いた女たちというものは戦後は「あばずれ」として、同じ女性たちからも差別され、社会から疎外をされてきました。こうした歴史もあり、自らの戦争体験というものを他人に明らかにすることには非常に忌避感が強い背景がありました。
ただ、アレクシエーヴィチは「彼らが語るとき、わたしは耳を傾けている……彼らが沈黙しているとき、わたしは耳を傾けている……
彼らのすべて、言葉も沈黙も、わたしにとってはテキストだ」との姿勢で根強くその言葉を書き留めていったわけです。
あえて、国家や民族に起因するものを巨大なナラティヴであると表現するならば、アレクシエーヴィチが丹念に書き留めた女性たちのナラティヴは「小さなナラティヴ」ということになるでしょう。彼女たちの多くは歴史に名前が残ることはありません。だが、その一つ一つの体験談というものが断片的にせよ、語られるとき、私たちは何がしかを感じざるを得ません。そこには生々しい「生活」の一部としての「戦争」があり、国家やイデオロギー、民族性を越えた「体験」があります。それを端的に表す表現があります。
スターリンのために行ったのではありません。私たちの子供たちのためです。子供たちのみらいのためなんですか。跪いて生きていたくなかったんです。
こうした個人の率直な心情というものは、戦争の一側面としてこれまで語られてこなかったものでした。一人一人に人生があり、そこに幸福と不幸があるという当たり前のことを、戦争は全て脇に追いやるわけです。あるのは死と、死ととなり合わせの生でした。
私が本書の中で非常に哲学的であると思ったのは以下の証言です。
神様が人間を作ったのは人間が銃を撃つためじゃない、愛するためよ。どう思う?
……一つは憎しみのための心、もう一つは愛情のための心ってことはありえないんだよ。人間には心が一つしかない、自分の心をどうやって救うかって、いつもそのことを考えてきたよ。
二つの心はない。愛憎どちらかに染まりながら、なおももがきます。その繰り返しの中に今日まで生きてきたことが明かされるわけです。社会や歴史は、彼女たちを表舞台から疎外をし、その「語り」すら、存在しないものとして扱ってきました。アレクシエーヴィチはそれら一つ一つを本書において渉猟をしていきます。これは一つの戦争の記録以上の意味をも持ち、戦争における記述の歴史にも一石を投じたとも言えるでしょう。
ですが、そこで語られる「小さなナラティヴ」というものはあまりにも多くの犠牲を伴うものでした。そこにあるのはドイツやロシアという国やドイツ人、ロシア人という人種もなく、ただ「人間が人間を殺す」という事実でしょう。
国家や歴史というナラティヴには抗しがたいものがあります。ナショナリズムというものは、民族という私たちのもう一つのアイデンティティに熱を持たせるものです。戦後日本においてはそうした面に対する忌避感が強く、正面から議論をする機会はほぼなかったといって良いでしょう。しかし、プーチンの行動を見るにつけ、国家や民族に起因するナラティヴ、ナショナリズムというものは20世紀の遺物ではないということも新たに自覚せざるを得ないものとなりました。
対して個人の持つナラティヴの持つ訴求力というものも、過小評価するべきではありません。そこには「私」と地続きの「生活」があり、戦争の実相とはそれらと一体化をするところにあります。アレクシエーヴィチは丹念にそこにあった証言を引き出したわけですが、未だ歴史が覆う彼女たちの「ナラティヴ」に僅かな光を当てたに過ぎないのかもしれない、とも思います。
戦後何年もたって空を見るのが怖かった。耕した土を見るのもだめ。でもその上をミヤマガラスたちは平気で歩いてたっけ。小鳥たちはさっさと戦争を忘れたんだね……(本文より)