それはハッピーエンドか?パトリシア・ハイスミス「キャロル」
過日、第10回の読書会を行った。今回は初めての小説である。パトリシア・ハイスミスの「キャロル」。何年か前に映画化された話題作の原作である。
あらすじはクリスマスイヴに主人公のテレーズがおもちゃ売り場で離婚問題を抱えたキャロルに出会うところから始まる。テレーズ自身には男性の恋人がいるが、キャロルに惹かれていく自分を止めることはできない。キャロルもまたテレーズに惹かれていき、2人は恋愛関係に陥るが、キャロルの離婚問題が関係性には常に付き纏い、暗い影を落としていく。2人は旅行に出かけるが、キャロルの夫が雇った探偵によって関係性を暴かれ、キャロルは離婚調停において難しい立場に立たされる。ここで一度テレーズとキャロルの関係にはピリオドが打たれるものの、2人はやがて再会しテレーズは再びキャロルの元へ歩みを進めていく……というものだ。
一般的にこのあらすじは「ハッピーエンド」と称されることが多いものの、参加者からは「これは本当にハッピーエンドなのだろうか?」との疑問が冒頭寄せられて、これはとても面白い視点であると感じた。
ここで、同性愛者の歴史、特に1950年代からのレズビアンの歴史を辿ると、1950年代は同性愛者にとっては受難の時代であった。赤狩り(反共産主義)と同性愛者は結び付けられ、社会的な差別と排除が徹底的に行われた。同性愛者は公職に就くことが禁止された。同性愛者は当然のこと、彼らに親和的な態度を取るだけで異性愛者であっても過酷な扱いを受けることが当たり前であった。本書はそのような時代に上梓された。だがすでに売れっ子であったハイスミス自身、世の中の趨勢もあり「クレア・モーガン」のペンネームで本を出すことを余儀なくされる。ハイスミス自身の後書きによれば、本書はペンネームで発表したものの、読者からの反響は大きく、出版直後よりファンレターが殺到したとのこと。この時代の小説や演劇では、同性愛者は怪しく反道徳的で奔放であり、異性愛者を間違った道に引き摺り込む存在として描かれる。そして、最後には健全な異性愛に完敗し、悲劇的最期(大抵は自殺。恋愛が成就することも当然ない)を迎えるというのがお決まりの筋書きであった。
こうした文化的背景を抱えながらも、テレーズとキャロルの行く末には破局や自殺を匂わせるものがなく、これは画期的なことであった。現代では市民権を得た同性愛者を主人公とし、恋愛関係をテーマとした創作物は珍しくないものの、1950年代にあってこれをテーマとし、さらにあからさまなバッドエンドの明示のない小説は一部の読者にとって極めて印象的なことであっただろう。
実際にハイスミスの元には「これは私たちの物語だ」とのファンレターが多く寄せられた。
その物語の結末の解釈は、時代によって、もっと言えば時代から内面化された価値観によって大きく異なる。そのことを感じた感想であった。
さて、もう一つの興味深い視点として精神分析的にこの小説にある様々なメタファー(例としてキャロルの持つ煙草)を解釈すれば何が言えるか?である。
私自身は精神分析には疎いものの、本作には煙草以外に、人物(テレーズとやや関係の深い歳上の女性)なども気になるところ。
フロイトのリビドー理論だと、人の性愛の固着する対象は口唇期、肛門期、性器期など段階的に変化していく。各段階が満たされると人は次の段階に移行していくが、満たされ過ぎたり、満たされなかったりすると、人はその段階に固着したり、退行したりとする。ガムや煙草など口を使うものに大人になっても固着している人は口唇期を抜けきっていない、との解釈があるそうだ。
この辺りの話しは面白く、他の小説の解釈にも使えるとまた異なる読み方ができそうである。
また、テレーズ自身は同性と恋愛に陥ることにあまり抵抗がなく、悩みがないようにも見える。異性の恋人に「もし男の子も恋愛関係になったらどうする?」とは聞くものの、結果的にはキャロルとは強固な関係性になっていく。一方のキャロルは結婚前より、女性の友人との関係性を夫から疑われるほど親密であったりしたものの、精神的に不安定である。テレーズは振り回される部分もあるものの、キャロルの不思議な魅力に惹きつけられているようだ。
今回の読書会では2人の恋愛関係から、小説の読み解き方について興味深い意見交換をすることができた。