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再読、中井久夫「世に棲む患者」「精神科医がものを書くとき」

中井久夫を再読した。彼の著作を初めて読んだのは大学生の時だったと記憶している。統合失調症への言及が多く、彼らの治療というよりは社会生活の方に比重を置いた考えを持っていることに印象を覚えた。
今回再読したのは「世に棲む患者」と「精神科医がものを書くとき」の2冊だ。中井は「社会復帰には二つの面」があり、一つは「職業の座を獲得することがあるが」より重要なのは「世に棲む棲み方、根の生やし方の獲得」であるかという。この「世に棲む」という感性が中井における治療論や患者論の中核的なものである。患者というよりも、生活者としての扱いがそこにはある。こうした視点は現代の精神医学や臨床の現場では当たり前のこととして受け入れられているけれども、中井が第一線で働いていた頃にはやや奇異に捉えられたかもしれない。精神疾患とは英語ではdisorderと書くように、秩序(order)から逸脱した状態のことを指す。とりわけ代表的な精神疾患の一つである統合失調症は幻覚や幻聴、妄想を伴うダイナミックな疾患であり、彼らの人間としての側面が医療現場で強調されるのは比較的近代になってからである。元々は鎖に繋がれていた精神病者がそこから解放されたのはフランス革命後である。現代の収容型の大病院においてもいわば「見えない鎖」として、精神病者の置かれている社会的環境というものはさほど変わらないのではないだろうか。中井の「世に棲む」という表現の中には多様な意味合いがある。地域でもなく、社会でもなく、「世に」というところが彼のオリジナリティがあるというか、特殊な所なのだと思う。ここには、即物的な意味合いだけでなくより広義の意味での人間存在を含んだ意味での「棲む」、あるいは存在をすることが含まれているのではないか。それは精神病者の抱えてきた歴史的苦しみというものを概観したときに、彼らのささやかな願いというものはこの「世に棲む」ということであったのかもしれない、と納得するのである。
そもそも人はなぜ精神を病むのだろうか?伝統的な精神疾患の発病原因の区分は外因(頭部外傷や脳内出血などの外的要因が原因で起こるもの)、内因(主に遺伝的な要因や脳の器質的な問題によって起こるもの)、心因(心理社会的なものが要因になるとされるもの、または外因性、内因性以外の要因によって起こるもの)とされる。統合失調症は内因性の精神疾患に区分されているが、詳細な発生原因は不明である。精神疾患の特有性は身体疾患とは異なり、物理的にそれを測ることができない点にある。これはうつ病のような気分障害などもその典型であり、人間の内面の問題を扱うがゆえに、科学としての医学とはそもそも現象的に馴染みにくく、矛盾する領域も含んでいると思うのだ。ここで必要な視座とは人間学あるいは哲学ともいうような思想的転換であると個人的に思う。
精神疾患の難しさとは、それが社会関係とは不可分な領域でおこり、それにより社会からの一時的な離脱や孤立を余儀なくされながら、その寛解においてはやはり社会(特に社会関係資本)との関係再構築が求められる点にある。
こうしたことを踏まえて中井の視点に還ってみると、生活というものが通底している。世に棲むということは、社会の中に存在をすることを指し、実感として伴うものは生活というものだ。だが、統合失調症においては長期間の社会的入院が長年問題視されてきたように、患者の生活者としての側面や援助というものは見過ごされてきた歴史的経緯がある。中井の念頭にはこうしたことが当然あったわけで、それが「世に棲む」ということに繋がっていく。
また中井によれば人間の自我には「まとめる力」と「ひろげる力」の2種類がある。この2つの微妙な繋がりと均整とが「正気を保つ」ために必要なことであるともいう。また中井独特の言葉に「心のうぶ毛」というものがある。これは「ある種の繊細さと向日性」を感じるためのものであり、精神疾患の治療において重要なものである。これは心のゆとり、余裕、豊かさというものとほぼ同義なものではないかと思うのだ。また患者の自然回復力であるとともに、他の人間の善良さを引き出すものであるとも中井はいう。
以上のように中井の人間観というものを概観してみると、その繊細さときめ細かさに改めて驚く。そして、そこには現代社会の中において忘れられたような、「暖かさ」というようなものがあることに気がつく。私たちの社会は確かに豊かにもなり、便利にもなった。だが、15歳から39歳の死因の第一位は自殺であり、年間の自殺者数も2万人を越えている。自殺の起因に精神疾患が大きく関わっていることは自明であるが、未だに私たちの社会はこうした社会病理というものに対しての術を知らない。個人主義と自己責任の名の下に、個人の問題は個人の問題としてのみしか処理されず広がりを持たない思想のみが、便利で消費可能なものとして生産され、消費されていく。
中井の思想は臨床的には興味深い。一方で科学としての精神医学、臨床心理学として見るならば、やや個人としての思索の発露というものが多く、「精神科医がものを書くとき」はあくまでエッセイとしての読み物である。だが、なぜ中井の言葉が現代においてこそ「暖かみ」を持って迫ってくるのかを、私たちはよくよく考えなければならない時なのかもしれない。それは相対的、相互作用的な「暖かさ」や「豊かさ」というものを社会そのものが喪失してしまったさなかに、私たちが生きているからなのかもしれない。その意味で、精神疾患という現象を描くならば、それは孤立した個人の問題ではなくて、「私たち」の問題であることが現れてくるのではないか?

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