木村敏、「あいだ」の概念
木村敏の著作をいくつか読んでいる。彼は精神科医でもあるが、思想家でもある。特に分裂病(統合失調症)に関する言及が多くあり、精神疾患といえば分裂病という長い精神医学の歴史を感じる。
だが、木村の視野は狭義の精神医学を越えてより深い人間学という視点に立って、論考を展開していく。木村の概念において目を引くのは「あいだ」という概念である。その前提となるものが「生命一般」というものである。
生命とは、個々の生命物質より以上のものであるだけでなく、そこに示される生命現象より以上のものでもある。それは個々の生命物質や生命現象とは別個の存在様式を示すと言ってもよい。生命そのものは、物質や現象のように形をもたず、個別的な認識の対象にならない。それはいわば、個々の生き物やその「生命」のなかに「含まれ」ながら、しかもそれらを超えている「生命一般」としか言いようのないものである。……つまりこの地球上に生存するありとあらゆる生きものにとって、それらが現に生きていることの根拠となっている。この根拠を離れて生命現象はありえない。われわれ人間を含むすべての生命物質が生きているということは、この根拠との関係が保たれている。
生命一般は、存在を根拠づけるものである。木村がこうした点から論を出発させるのは、生物は「生きている」という自明のものへの精神医学それ自体の希薄な意識へのアンチテーゼのようなものがある。さらに木村はヴァイツゼッカーの論考を紹介し、生命一般という即物的な次元から、人間関係という社会的側面へと広げていく。
ヴァイツゼッカーが生理学の中へ導入した「主体」の概念は、言うまでもなく本来は人間関係にこそ用いられるべき概念である。主体と主体との間の、つまり「間主体的」な人間関係はどのような構造をもっているのか、われわれはこの問いに答える道筋として、一般に行われるような哲学的あるいは心理社会的な議論から始めることを避けて、「生きているもの」の学としての生理学あるいは生物学の領域の着手点を求めた。いかに複雑な知性を持ち、言語的に分節された意識をもっていようとも、われわれ人間も所詮は生きものなのであり、あらゆる知的営為は生きるための方策とすれば、人間の学はなによりもまず生命の学でなくてはならないだろう。
木村にとって、生命というものが何よりの起点である。さらにここにフッサールのノエシス/ノエマという現象学の概念を導入していく。
ノエシス(noesis)とは、ノエマ (noema)とともに、フッサールの現象学における術語で、両者は意識の契機として相関的な関係にある。フッサールによれば、意識は常になにものかについての意識であり、したがって意識には作用的側面と対象的側面があり、前者がノエシス、後者がノエマと呼ばれるものである。
主体の中におけるこうした現象学的な性質を、木村は音楽演奏における演奏家のそれぞれの活動における特質を例に指摘していく。個人的にはこの辺りの入り組んだ言説よりも、やはり木村自身の中にある精神医学それ自身へのアンチテーゼ的な意識の方が興味深い。
特に生命一般という概念は、改めて指摘するまでもない自明なことであるが、そうであるが故に歴史的に精神医学が科学としての歩みを始める過程で忘れ去られてきたものの一つでもある。だが、人間の心の領域、木村流に言えば生命の領域というものは、科学というよりも思想に属するものでもあると個人的に感じる。奇しくもヴァイツゼッカーは「生命に携わるものは、その生命に対する哲学を持て」とも書いている。
木村の「あいだ」に関する論考というものは伝統的な精神医学から見ると科学的であるとは言えず、一つの哲学書の趣きすらある。それは生命そのものへの眼差しであり、生命一般という存在の根拠についての言及において、木村独自の思想がある。
誤解してならないのは木村自身が「あとがき」において書いているように、それは「自己意識」というような従来精神医学において言及されてきた類のものでもない。それは即物的であり、矛盾するようだが近代における知的営為というものとも一線を画している。それは何かを類型し、意味を付与するという意味での知的営為ではなく、「生きるための」知的営為に連なるものであるといえる。
こうした姿勢は、精神科医として精神医学に対する一つの挑戦でもあったのではないかと感じる。生命そのものへの温かな眼差し抜きにして、精神疾患とその患者への関わりを深めることはできない。だが、精神医学それ自体がそうした姿勢から遠ざかっているようであった。これは非常にパラドキシカルで、科学として精神医学が独立しようとすればするほど、生命一般を「観察」することはしても、それらに自ら「寄り添い」、間主体性を持った「あいだ」を生成するには至らない。あるのは患者と医師という関係性を規定する権威的な学問としての精神医学があるだけである。
木村は精神医学とは人間の学でなければならぬ、とも書いているがそれは心/生命というものへの畏怖に近い観念がそこには垣間見える。心の領域には、科学の立ち入らない暗黒の領域があり、精神病理とは恐らくその多くがこうした闇の領域から抜け出てなんらかの形を取っていることが多い。では、どのようにそれらに近づくことができるのか?
生命一般という概念はその原初的な一歩であったのではないかと思うのだ。
参考:引用「あいだ」木村敏 ちくま学芸文庫
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