「美術」への眼差し
佐藤道宣「<日本美術>誕生」を読む。
美術という言葉は、日本において特に明治近代期に造られた「官制用語」であった。工芸と美術の境目というものは当初曖昧であり、無論今日的な意味で芸術家を指す、アーティストと職人の境界も曖昧であった。佐藤は日本美術史そのものが近代の所産であり、それは美術の言説であるともいう。
美術という言葉と概念は日本の近代化と歩みを同じくして生まれたものである。そして、そこには日本という国へのナショナリスティックな眼差しも多分に含む。美術というものは、国威発揚に利用され、また日本の近代化と富国強兵により美術そのものも大きくなっていく。
「<日本美術>誕生」においてその過程が述べられていくのだが、個人的には裸体についての日本独特の発展が極めて興味深い。
明治初年まで、それらは「裸形」「人形」の語で呼ばれていた。存在そのものより、形と状態を描いてきたのであり、浮世絵などが、人体構造より人肌の質感の再現に意を注いできたのにも、それは感じられる。解剖学が美術で講義されたのは、人間表現に人体構造の把握が導入されたからであった。つまり「形」から「体」(「裸形」から「裸体」、「人形」から「人体」)へという変化は、見えから存在へという認識の変化を示しているのであり、ここでの「体」という語は実在論的なキーワードとひての役割を負ったのだった。ただ、その後数多く制作された裸体像のフワフワした実態感のなさは、制度としては定着したにもかかわらず、そうした実在論的な認識が、結局日本には根付かなかったことを示しているように見える。それは無理解というより、肉体の存在を生・死へと移りゆく一つの状態として捉えてきた、より長く深い人間観や身体観に淵源している問題なのかもしれない。
この文章を読んだときに感じたのは、果たして身体とは、見る(認識)するものなのか、見られる(実感)するものなのか、ということだ。
認識というものは抽象的な趣きがするし、実感というと、そこには実態を伴った生身の手触りのようなものを感じる。
そこには自己と他者の視線の交錯というようなものも感じるが、佐藤はより広く「肉体の存在を生・死へと移りゆく一つの状態」とした日本独特の裸体観というものを指摘している。
裸体というものは、美術において極めて重要なモティーフであったが故に、おそらく芸術家の認識から免れることはできない。裸体とは解剖学の発露ではなく、芸術家の眼差しの可視化の手段として扱われてきたことを、佐藤は指摘しているわけである。
中野京子は西洋美術は観るものであると同時に読むものでもあった、と著書に書いていたが、佐藤の言う裸体の「読み取り」というのもなかなか興味深い。
話しは変わるが、美術というものは現代と名付くとき、とても複雑な様相を呈していると思う。マルセル・デュシャンを引き合いに出すまでもなく、美術そのものへの挑発と唾棄、またそれまで格下に扱われていた大衆消費財のデザインをも含む新たな美術観は、美術の在り方そのものへの大きな転換であったと思う。だが、そうしたダイナミズムそのものが教科書に載る時代というものを私たちは経験をしている。すでにかつての革命が権威化した中において、新たな模索というものがまさしく美術界の歴史を作っているのだろう。
私は個人的に現代美術と思想、社会運動との境界が極めて曖昧でこの辺りのことがよく分からないと思うのだが、どうだろうか。美術とは端的に美の追求というのが私の定義なのだが、それは歴史的な役割をもはや終えているというのだろうか。美そのものの多様性と多義性というものは認めざるを得ない。そして、それが一種の思想性や宗教性を帯びることも一理あることである。そして、そこから社会構造そのものへの変化というものも歴史的にはあったことであり、これからもそのようなことはあるのだろうが、こと現代美術というものに対しては、私は曖昧で理解のできなさ、というものが先行するのはなぜだろうか。
現代美術の「寄せ付けなさ」というものを、私はどこかで感じていた。それは既存の美術にあった権威と教養主義というものとは別種の「尊大さ」であり、それは現代美術特有の思想性と社会運動性にありそうだと、ふと思ったのだ。そこにある知性主義や教養主義というものは、多様なようで閉鎖性の強いものがある。これは現代美術に向けられる「難解さ」にも通じるような部分があると思う。
だが現代美術の持つ実体性というものには、時折ハッとなるのも事実である。以前行った美術館に、不思議な展示品があってそれは人間の持つトラウマなどをテーマとしたものだったが、大きな部屋を覗くような小窓があり、その小窓から展示物を鑑賞者は観ることになるのだが、そこは間接照明のようなもので照らされていて、骸骨や蝙蝠なんかの影絵がゆらゆらと動いている、というものだった。ふと目を下に転じると、その構造は単純なもので、間接照明の手前に骸骨や蝙蝠の形に切り抜いた紙が置いてあるだけで、それがゆらゆらと揺れて独特の動きをしていた。それは恐らくエアコンか何かの風で揺れているだけだったのだ。解説では、トラウマの正体というものの滑稽さや矮小さ、というものの表現、というようなことを書いてあったと記憶している。それがなぜかとても面白く感じたことを覚えている。
現代美術の持つ実体感と、空間にも芸術家の認識というものは不可分なものだろう。それは思想性を帯びたときに、一つの現象となって鑑賞者の前に現れる。美術のもつ効力とは、つまりこのような現象を指すのだろうと、私は理解する。思想性とは、一つの実体であり実存なのだろう。それは官制用語としての美術とは相容れないものでもあるだろうが、それを超克して美という現象はそこにある。