「ケア」の持つ言語不明瞭さ、曖昧さ
「群像 8月号」より、「ケアの語られる土壌を耕す 編集者・白石正明に聞く」をhttps://gendai.media/articles/-/84942から読んだ。
非常に興味深いテキストで、医療福祉現場における「言葉のできなさの逆説」というものをよく捉えていると感じた。
「ケア」という言葉の定義を「『脆弱な状態にある他者』を身体的、精神的に世話する営み」とし、以下に白石の言が続いてゆくわけだが、医療現場における看護師と医師との語りの差異というものに焦点が当てられる。
看護師の語りについて、医師は「もっと論理的に」とし、暗に看護師の語りを批判ないしは幾分かの「見下し」がそこに含まれている。そもそも、誰かを「ケアする」という行為はどのような行為であるのか、それに対する検討はまだ道半ばであると言ってよい。白石はこれについて、「考えてみれば、人間の人間たるゆえんはその社会性にあるわけですから、倒れている人がいたら手を出すって、社会的な動物として極めてプリミティヴかつ高貴な行為ですよね」とし、このインタビューの結びにおいては、むしろ医師の側(受け止める側)の方が、看護師の語りにある「言葉のならなさ、明瞭さの欠如」というものを分ろうとする必要があるのでは、と指摘する。
看護師とはケアという領域の最前線にある人たちであり、医師はその中における専門職ヒエラルキーにおいては頂点に立つものだ。そして、社会的文脈においてはこの医師の発言こそが主たるものであり、看護師の持つ語り(言語不可なものも含む)や体験は周縁に追いやられていく傾向が強い。
ちなみに近縁の福祉現場において、医師のいない場合は看護師が専門職ヒエラルキーの頂点に立つ傾向があり、実際に医師の語りを内面化した看護師も散見される。そして、そこでは医師が看護師を見下すが如く、看護師が介護士を見下す現象が起きていることもよく知られていることである。医療現場における関係性が福祉現場においても再生産、あるいは輸出されていることも注目に値すると思うが、いかがだろうか。
ここにはケアという行為にある「ままならなさ」というものへの理解の乏しさがあるように思う。逆説的だが、人が人をケアする領域には決まった正解があるわけではない(インタビュー中で白石も述べている)。ケアとは(本人にとっての)正解というものを共に探していく過程であると、私は自身の経験上感じているが、その正解を見つける法則というものは極めて多様多彩なものであり、これは言語化や概念化の難しいものであると思う。端的に言えば「説明のできないもの」「理屈ではない」領域のウエイトが非常に大きいともいえる。正解に辿り着くものとして、資格や科学性というものがないわけではないが、そういった不変なものよりは、その場その場でのやり取り、微妙な機微や空気感、あるいはそれぞれの人間的相性やタイミングなどが大きくものを言うのが「ケア」という領域の特色であると思う。
ここで働く人々の感覚や語りと、近代合理主義を内面化した個人や社会の持つ語りとは、必然的に乖離せざるを得ない。
「ケア」の領域においては時に曖昧さ、矛盾などが許容される。あるいは相互にそういったものを許容しなければならない面があるといっても良い。
たとえば福祉の現場では「わがままな障害者」「意地悪な障害者」「障害を言い訳にする障害者」というものが存在する。彼らの理不尽かつ自分勝手な言動を目の当たりにした介護士の「だから障害者って差別されるんだよ」の捨て台詞を身近に聞いたこともあるが、「ケア」とはまさに彼らの理不尽さや身勝手さの中に「入り込んでいく」過程である。より一般的に言うならば、他者の中に入り込んでいくことであり、具体的には彼らの世界観、語り、生活、人生の中に入り込んでいくことである。だがこれは容易なことではない。
白石は小川公代の解説に出てくるチャールズ・テイラーの「多孔的な自己(porous self)」という言葉を紹介している。これは「孔がたくさん空いていて、いろんなものに侵入されてしまうという意味」である。そして、多孔的存在として精神科医の中井久夫が言及される。白石は中井について、「中井さんには……『侵入されやすさ』がある。ヴァルネラブル(脆弱)と言ってもいいと思います。ケアというのは、そういう人が力を発揮できる職業なんじゃないかなと思いますね」
この「多孔性」というものが非常に興味深く、説得力のある説明であると感じた。他者の中には、当然自分と相入れない諸々の価値観なり考えなりがあるわけだが、「それはそれとしてとりあえず」受け容れる(しかない)過程が存在する。
私は個人的に、対人援助の場面で誰かの前に立つ時、「あなたの常識は私の非常識、私の常識はあなたの非常識」ということを考えるわけだが、おそらくケアの実践者は無意識にこのことを実践しているはずである。
これもある意味では多孔性とも言えなくはないが、白石は「これって、正しい近代的個人、じゃないですよね。近代的個人というのは、外からの侵入や影響から身を守って自分を確立している設定じゃないですか」と指摘する。
この言葉を読んで、先の看護師と医師の語りの対立も含め、いわゆる一般社会と医療福祉現場における感性の乖離は、この「近代社会」あるいは「近代的個人」に起因するかもしれないと直感的に思った。
近代とは合理性の時代であり、科学や科学的知見をベースに置く医療もまた同じである。また独立した合理的存在としての個人というものもまた、近代社会を構成するものであり、ある意味ではその集積と内面化によって社会というものが成り立っているとも言える。一方で「ケア」というものは前にも述べたように、その内部や営みに曖昧さや矛盾、不合理をはらんだものであり、むしろ人間同士のそういった面に寄り添ってこそ機能するものとも言える。そして、他者の存在が自明なように、孤立ではなく双方向な集団性を志向する。言うなれば、「ケア」の実践とは近代社会、近代的個人、より言えば近代的自我というものとは真逆のものであったわけだ。
この時代にあえて「ケア」というものに飛び込むということの意味を改めて感じる。
「ケア」の持つ文化的な文脈から批判的に検討するなら、冒頭の「脆弱な状態にある他者」の「脆弱な状態」とは一体誰が決めたものなのだろうか、また「誰にとって脆弱な状態であるのか」を問うことは大きな意味を持つ。それは疾患が何を持って疾患とされるのか、という問いとも同じである。疾患よりもより社会的文脈の入り込む余地のある障害という言葉についても同じである。
また付言するならば「ケア」の持つ言語不明瞭さ、曖昧さ、不合理さは他者との関係性における「余白」であるともいえる。白石も「ケアというのは、スペースをあけておくことが重要だと思うんですよね。物事は、嚙み合うとスペースがなくなっちゃう。たとえば、片方の人が何かを言って、相手が嚙み合った応答をしたら、それで終わっちゃう。片方が何かを言ったとき、他方が『でもそれって……』と微妙に嚙み合わないことを言ったとき、この余白にこそいろんなものが参入するんです」という。
現代社会や近代的自我にはこの「余白」というものが、自分の中にも他者の中にも見出せない傾向があるように思う。そのこと自体は、もしかすると人がより知性的になった証であるともいえなくないかもしれない。その意味で「ケア」とは原初的な営みであるとも思う。だが人の本性とは、社会的存在であり、H.Sサリヴァンの言うように交流的存在であると思う。この関係性を扱う「ケア」というものの持つ力は時代が変わっても不変であると思うのだが、どうだろうか。
2021.07.17
他人や自分を「ケアする」ことは、じつはとてつもなく高度な営みだった
編集者・白石正明に聞く
https://gendai.media/articles/-/84942