高嶺のサボテン

サボテンを買った。生まれてはじめてサボテンを買った。

マミラリア属の黄星丸という種類のサボテンで、小さなサボテンがいくつか一緒に生えている。それはまるで星々のようでとても愛らしいサボテンだった。

私は予期せぬタイミングで出会うと運命などと思ってしまうロマンティックな性分なので、イベント会場で偶然見つけたグリーン専門の出店でサボテンを買った。

可愛がってあげてくださいね。店員さんから受け取ったサボテンを首の座っていない赤子のように抱えた。はい、これからは私が責任をもって愛情を注ぎますから。と心の中で返事をした。

私は帰り道、サボテンとの生活に胸を膨らませた。どんな名前をつけようかな。花は咲くかな。お水のあげすぎには注意しなくっちゃ。新しい家族が増えるというのはとてもワクワクすることだ。

帰宅してすぐに自室の日当たりの良い窓辺に置いた。西日が差す暖かい窓だ。心なしかご機嫌に見えて、私も微笑んだ。

大人になったらサボテンを買う。それは幼少期からのささやかな夢だった。

小学校の頃、ポルノグラフィティにドハマりした。

テレビではじめてアゲハ蝶を聴いたときの衝撃は今でも鮮明に覚えている。こんなに情熱的な詩を書く人がいるのか。この人の声だからこんなにも胸が熱くなるのか。それは恋にもよく似た熱情だった。

それからレンタルビデオショップに行っアルバムを片っ端から借りた。ウォークマンに入れて四六時中聴いていた。小学生には少し刺激的な歌詞がまた私の妄想を掻き立てた。

ポルノグラフィティ「サボテン」という曲がある。

恋人の大切さに今更になって気づく。彼女がサボテンにたくさんの水を注いでたのに、僕はその愛に気がつけなかった。今ならやり直せる。でも追いかけられなかった。

ぎこちない恋愛の終わりを歌うこの曲はサボテンの棘のように繊細な彼女の心に触れる歌でもあるのだ。

ポルノグラフィティの曲のように不器用でも心から愛してくれる誰かと私も恋に落ちる。ませた私はその頃から恋に夢を見ている。

その当時と今の私は大差なく、私の心も変わらずサボテンの棘のように繊細だ。追いかけてきてくれる誰かを鉢の中で待っている。

買ったばかりの鉢にサボテンはいなかった。

心臓はドクドクと音を立てた。床に散らばった土をたどる。焦る心に急かされて足早にたどる。

猫の手の内でおもちゃにされたサボテンがいた。

引っこ抜かれたサボテンは何も言えないでそこにいた。血も出なければ、うめき声もない。根っこから土と引きはがされてぐったりと横たわるサボテンの姿はあまりにも無残だった。私の目からはただ涙がこぼれた。

私にしか守れなかったのに。

私はサボテンで遊ぶ猫をおもむろに抱えて、部屋の外へ出すと「だいきらい」と叫んだ。

猫は外でみゃあみゃあと鳴いている。なんでそんなこと言うのよ。私が何したっていうのよ。そんなことを言われている気がした。

散らばった土を片付けながら、私は大人げない自分に嫌気がさした。子猫に大きな声をあけて怒って。伝わるわけないのに。わかるわけないのに。よく見てみると、根っこは丈夫そうで土に戻せば問題なさそうだった。たかがサボテン一つで、自分でもそう思う。

それでも悲しかったものは仕方がない。大切にしたかったのだ。

感傷的になりすぎてしまうのは昔からだった。繊細さは傲慢だとわかっていても、この性分と付き合っていくしかない。生やした根を簡単に動かすことはできない。棘で自分を守っているのはサボテンも私も同じだ。

植え替え終えると、ふたたび日当たりの良い窓辺にサボテンを置いた。窓辺のサボテンと目が合う。私は大丈夫よ。ますます悲しくなってサボテンにキスをした。棘が痛くてまた泣いた。サボテンにかかからないように。

んみゃあ。

猫が私の膝に乗って、ゴロゴロと鳴いた。ごめんね。私もごめんね。そう言って彼女の頭を撫でた。もしも、こんな風にごめんねが言えたなら彼らは上手くいっただろうか。サボテンの花は咲いただろうか。

恋人と一緒に暮らすことになったらサボテンも連れていきたい。水をあげすぎなくても済むように愛されてみたい。傲慢でしょう。私はまだ鉢の中だ。

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