型と守破離について考える
こんにちは。今日はインテグラル理論の中で型と守破離について考えることがあったので紹介したいと思います。
過去のインテグラル理論と茶道についての話は下記noteをご参照ください。
以前、インテグラル理論と茶道の話をした時に前慣習的段階と慣習的段階の違いがわかりにくかったなと思って、ずっと考えていました。
最近、型のことを考える機会があり前慣習的段階と慣習的段階では型に対しての認識が違うのではという結論になりました。そちらについて紹介したいと思います。
型とは何か
そもそも型とは何でしょうか。日常生活ではよく決まりきったルーティンのような意味で使われ、「型にはまっている。」などとあまりよくない意味で使われることもあります。
私は型とは過去にその構造と効用が十分に検証され有用だと判断されたプラクティスだと思っています。型がどれだけ成熟しているかは分野によると思いますが、伝統芸能の分野ではその時間軸が数百年であることもざらです。
ここでインテグラル理論の四象限をおさらいしてみましょう。
個人と集団、内面と外面により四象限は定義されます。
この四象限の意味の紹介については、前回の記事を参考にしていただければと思います。
前慣習的段階では、集団が認識されていないことが特徴という話を前回しましたが、型の認知についても違いがあります。前慣習的段階では型を真似しているものの、効用は理解されず、また型を再現すること自体も不十分であり習熟を要する段階と言えると思えます。上達、達成感を多く感じることができる一方、体験の解釈は先生など他社に委ねられており、自らの体験の型に対する位置づけができない時期だとも言えます。
慣習的段階になると、型の構造と己の立ち位置との距離がおぼろげにわかるようになります。自身の習熟度と型との距離を認識できるようになることではじめて慣習的段階になったと考えることができます。原理原則を獲得する期間であるともいえます。そして型を最低限のレベルで遂行できるようになると今度は後慣習的段階へと進化していきます。
後慣習的段階においては、型が持つ構造と効用を理解した上で型を実践することができるようになります。同時にコンフォートゾーンから抜けだすためにラーニングゾーンに移行するアクションを試みるようになります。
まさにこれが守破離の破と離なのです。
上記の言葉は、茶道を少しでもやったことがあれば聞いたことがある「利休道歌」のひとつで、守破離の語源となっている歌になっています。
つまり守破離とは、型の本質を体得している後慣習的段階に至らなければ始めることができないのです。
型が何なのかということについては、佐渡島浩平さんの「観察力の鍛え方」という本に説明があり、もやもやしていた前慣習的段階と慣習的段階の違いをすっきりすることができました。観察力という普遍的なテーマについて書かれていて、どんな職業の方にも有益な本だと思います。
守破離とはどんな状態なのか
守とは型の構造と効用を理解して、さらにプラクティスとして型を実行している状態をさします。
初学者である前慣習的段階、あるいは慣習的段階の人がオリジナリティのあるお点前をやろうとすることがありますが、型の構造や効用、型の再現が経験として理解できていないため、どこかちぐはぐさを感じることが多いです。これはどんな世界でもよく見かける事象ですね。
一方で後慣習的段階で、型の構造、効用を理解しながらもコンフォートゾーンを抜けるためにルールから逸脱することにチャレンジする状態、これが「破」と呼ばれる状態です。
「破」とは調和された状態からの逸脱、つまり結果が予測できないカオスな状態ということもできます。
「破」の状態は、トライ&エラーを伴います。結果がどうなるかわからない状態です。
「破」の状態で検証を行った後に、新たな型を構築します。これが「離」の状態です。一般的に型はより洗練されていくと考えられていますが、もともとの型の理解の質が悪い場合、「離」の結果、構築された新たな型はかならずしもオリジナルの型より良いものになっているとは限りません。
しかし、「離」に至った人は、少なくとも従来の型との構造・効用の違い、互換性などを説明することができます。
型には前提条件がある
型には、型を型たらしめる前提条件があります。例えば茶道であれば抹茶は粉末状であることなどです。前提条件はインテグラル理論の四象限の左側より右側の変化により変わる可能性が高いのではないかと思います。つまり物理的な社会環境の変化です。茶道の世界ではあまり発生しないと思われますが、デジタルテクノロジーの影響を受ける世界では、型の前提が変わってしまうため、型を変えざるを得ないということが起きていると思います。
型が前時代の型より圧倒的に上位互換するのであれば、前時代の型の上位互換になるため、旧時代の型は姿を消すことになるでしょう。
仮に茶道の世界であっても、上記の条件に当てはまれば型は変わると考えられます。
利休の後人も凄かったが
古田織部という茶人をご存じでしょうか?利休の弟子で、徳川家康の茶頭をつとめた人です。古田織部の人生を描いた「へうげもの」という漫画では、利休の弟子である古田織部やその他の弟子達、小堀遠州、金森宗和というその後の世代の歴史上の有名な茶人達がたくさん登場します。
現代もその流派は残っており、織部流、遠州流、宗和流などと千家の流れを組む流派とは別に存在します。彼らは、皆すばらしい茶人でした。しかしながら、利休の型を元にしているものの、型を完全に上書きしているわけではないと感じます。
違うけど、同じ、そんな感じでしょうか。
「離」とは、本質的な構造・効用を逸脱することはないため、まったく違う型になるかどうかは、時代や環境の前提条件を必要とします。そうでない場合、上記のように元の本質的な型から派生するような型になります。
そう考えると、「離」の状態とは必ずしも元の型を塗り替えるものにはならないのです。
このようにインテグラル理論の中で型や守破離の状態を考えることにより、型や守破離の理解を深めることができました。
また気が付いたことがあれば、共有したいと思います。
ではまた。