じもとランデヴー
九月の終わりごろだった。ぼくは地元の土手沿いを歩いていた。小中と通学路で何度も通った道だけれど、こうして歩くのはだいたい十年ぶりくらいになる。
東京と違い、高い建物がないだけ視界が広い。街を囲うようにして連なるあの山は、なんという名前だっただろう。遠くで学校の予鈴が鳴る。もうすぐ昼休みも終わるころかもしれない。こんな風に、気ままに時間を送るのは久々だ。煙草の代わりに、胸いっぱいに空気を吸い込んでみる。むせ返るほどの安心感があった。
駅前の商店街に出る。かつて空地だった場所にはコンビニが建ち、角の青果店はシャッターを降ろしていた。年季のある看板だけはそのままに、改装された駅舎には真新しい地図が設置されている。変わっていないように見えて微妙に違うのは、答え合わせみたいで、少しこわい。
ふと、ある店のことを思い出す。中学まで通い続けたおもちゃ屋だ。ぼくの生まれる前からあるらしく、おじさんとおばさんで店番をしていた。当時のぼくや同級生たちは、放課後になると真っ先にそこへ向かった。おじさんがいつも笑顔で迎えてくれて、バヤリースの瓶ジュースをくれる。そんな時代がぼくにもあったのかと、なんだか自分の思い出じゃないみたいでつい笑ってしまった。一度気になってしまうとなんとなく収まりが悪い。せめてまだ営業しているのかだけでも確かめたいと思い、ぼくは記憶をたどるように、店に向けて足を進めた。
段ボール箱を不安定に重ねたような雑居ビルの一階に、そこはまだあった。出入り口にはおもちゃのポスターが隙間なく貼られているが、何年も前のものばかりで、どれも日焼けして色褪せている。窓硝子に消えかけの文字で店名が刻まれていた。当時と変わらないたたずまいに、なんだか照れくさくなる。思わず視線が泳ぐ。窓越しに見る店内は薄暗い。ぼくは意を決して、引き戸を開けた。
入って左手には駄菓子や飲料が売られていて、その奥のショーケースにはブリキのフィギュアが飾られている。おじさんの趣味だ。売り物らしいが、どれも高額の値段がつけられている。右手にはレジを囲むように腰くらいの高さのショーケースが置かれている。そのなかに、あのころ夢中になって遊んだカードゲームが並べられていた。コマやけん玉、おはじきなどの昔ながらのおもちゃも、相変わらず宝探しみたいに無造作な売り場だった。
記憶のなかの景色と大した差はないけれど、変わらないものばかりでもない。店の奥にあったアーケードゲームは軒並み撤去されていた。代わりに、カードゲームの対戦用に長机が設けられている。雑然とした店内に突然会議室が現れたみたいで、なんとなく落ち着かない。よく見ると、ミニ四駆やプラモデルの売り場も縮小されていた。当時の記憶が段々と甦り、同時に、なにかをひとつひとつ失くしていく。
「らっしゃーい」
間の抜けた声につられて顔を上げた。積み上げられたジグソーパズルの箱の影から青年が顔を覗かせる。目元まで伸びた長髪に眼鏡をかけ、よれた紺のエプロンをしている。どうやら従業員らしい。てっきり、おじさんが迎えてくれるとばかり思っていたから、軽く肩透かしを食らった気分だ。
「え、ナツじゃん。どうしたよ急に。めっちゃ久しぶりじゃん」
突然、彼が声を上げてぼくに詰め寄ってきた。状況が飲めないぼくは思わず後退る。それを察してか、彼はスマートフォンを取り出し、一枚の写真を見せてきた。それは、中学の卒業遠足で撮った写真だった。写っているのは、よく連んでいた四人。ぼく、あっくん、りょーちゃん、そして、
「吉永だよ。よっしー。忘れたのかよ」
その時、線画だった絵に色が塗られるように、脳裏に記憶が再生された。
それから、ぼくとよっしーは思い出話に花を咲かせる。不思議だった。自分ではもう覚えていない記憶でも、こうして当時を共有できる相手がいるだけで、忘れていた思い出もその輪郭が浮かび上がる。ぼくはタイムカプセルを想像した。自分の底に埋まっていた思い出が、次々に掘り起こされていく。
「よっしーはなんでここで働いてるの」
長机を挟んでぼくらは座る。素直に、ずっと気になっていたことを質問してみた。
「もともとここのおじさん、俺んちの親戚だったんだわ。そのよしみで、今はここで働いてる」
よっしーとは小中ともにここでよく暇を持て余していた。おじさんとも普通に会話していた。二人が親戚同士だったことに、少し驚く。
「おじさんは? 元気にしてる?」
尋ねると、あー、と間延びした声とともに、よっしーはあからさまに顔をそらした。
「死んだよ。今年の四月に」
一瞬、時間が止まった気がした。ややあって、喉を詰まらせたみたいな声でごめんと謝る。
「別にナツが謝ることはないだろ。つーか、誰も悪くねえよ」
すると、よっしーの視線はぼくの背後を見据える。つられて振り返ると、その先に、額に収まった古い写真が飾られていた。この店を背後におじさんが写っている。思い出のなかのおじさんと変わらない笑顔で、腰に両手を添えていた。
「しばらくは奥さんが経営してたけど、その奥さんも、夏ごろから体調を崩してさ。実質、俺がひとりで受け持ってる感じよ」
そうだったのか、とぼくは低い声でつぶやく。それを境に、お互い口を開きにくい空気が続いた。ひとしきりの沈黙を置きつつ、痺れを切らしたよっしーが口を開いた。
「そういうお前の方こそ今なにしてんの? 今日って平日だよな」
ついに触れられた話題に、ぼくは内心で身構えてしまう。けれど、それも馬鹿々々しくなって、余分な空気を抜くように息を吐いた。
「仕事は、今月で辞めた。今は有給消化で帰省中」
「まじか。なんかあったのか?」
よっしーはぼくの顔を覗き込む。どんな風に答えたら良いのかぼくが思案していると、彼は急に立ち上がった。
「いや、やっぱいーや。そういうの聞くのは野暮だよな」
言いながら、両手を挙げて伸びをした。あ、そーだ、とすぐに気を取り直したよっしーは、レジの方に戻ってなにかを持ってくる。これ覚えてるか、と言って机に置いたのは、当時のぼくらが夢中になって遊んだカードゲームだった。ゲームに使用するための四十枚の束になったカードが二つ、半透明のケースに収められている。
「なつかしい。覚えてるよ」
「めっちゃやってたよな」
よっしーがひとつのケースを開けてなかのカードを机に広げる。そして、目を輝かせながら言った。
「なあ、久々にやろうぜ」
勝負は圧倒的によっしーの優勢だった。なにせぼくには十年近いブランクがある。考えてみれば、よっしーは仕事柄、この手のカードゲームの流行には詳しいはずだ。どの組み合わせが強いのか、そういった情報は把握しているのかもしれない。聞くと、ここも数年前からカードゲームを主に扱うようになったらしい。そのおかけで一時的に売り上げも持ち直したという。もっとも、アプリゲームが主流の現代では、カードゲーム市場もなかなか苦しいみたいだった。
「はい、おしまい」
勝負はぼくの完敗だった。十年ぶりにやったカードゲームは、自分が熱中していたころよりもルールが大きく変わっていた。まるで別の遊びをしているみたいで、悔しいというより、驚いてばかりでそんな暇さえなかった。
「十年でこんなに変わるものなんだな」
「ルールなんていくらでも変わるさ。環境が違えば、必要とされるカードだって変わる」
「そういうものなの?」
「今は必要なやつも、環境が変わっていらなくなる場合もある。逆にそのおかげで日の目を見るやつらもいる。その時々で、価値や見方が大きく変化するんだ。変わらないものなんてないんだよ」
広げられたカードを集めながら、よっしーが静かな声で説明してくれた。
「駅前の夏祭りの日、ナツやみんなでこの店に集まって、カード買って遊んだよな」
よっしーがゆっくりと言葉をつなぐ。
「でもあの時、おじさんが俺らに、カードばかりやってないで外に出なさい。それじゃ家にいるのと同じだよ、って言ってたの覚えてるか?」
「なんとなく、覚えてる気がする」
みんながカードゲームやアーケードゲームばかりやらないために、夏祭りの期間は、駄菓子と飲み物だけを売っていた。
「今考えると、あの時おじさんが言っていたことは正しかったなって、そう思う」
よっしーの表情に、段々と陰りが見え始める。
「今年の夏祭りの日、りょーちゃんが来たんだ」
「え、りょーちゃんが?」
「そうなんだよ。しかもあいつ、東京で法律事務所に勤めてるらしい」
「まじかよ」
ほんと驚きだわ、と言ってよっしーは笑う。けれど、その笑顔は力なく萎んでいく。
「俺、あいつに言われたんだ」
「なんて」
「まだこんなところにいたのか、って」
瞬間、自嘲気味に乾いた笑いをもらした。
「その時思ったんだ。もしかしたら俺は、昔にばかり拘っているのかもしれないって。本当は、俺がこの場所に残ることで、こうしてナツが帰ってきたように、ここがみんなを迎えられる場所になるって考えてたんだ」
その時、いつもぼくらを迎えてくれたおじさんを思い浮かべた。居残り勉強を抜け出して遊びに来た時も、中学に進級し、部活の大会で負けたのが悔しかった日も、おじさんは、変わらずここで待っていた。
「でも実際は、みんなは俺が思うより大人になっていて、社会人として辛いことも嬉しいことも経験して、俺だけが、その輪を共有できずに取り残されている。そう考えると、急に自分が恥ずかしくなってさ」
ぼくは黙って話を聞いていた。聞きながら、自分について考えてみる。一度社会に出て、ぼくはそこから逃げ出してきた。後悔はしていない。ただ、その答えが今この場に必要とされている言葉なのか、分からなかった。ぼくが模範解答であるはずがないのは、ぼく自身が誰よりも理解している。
「だからさ、俺も、変わらなきゃいけない気がしたんだ。いつまでも同じ場所に留まるだけじゃ、前にも後ろに進めないって」
よっしーがカードの束を机の上で整える。表情は依然としてうつろなまま、薄い笑みだけ浮かべているのがひどくもどかしい。
「待った」
カードをケースにしまおうとする姿を見て、ぼくは咄嗟に声を上げた。驚いたよっしーは動きを止めて、顔を上げる。
「もう一回、やろうよ」
ぼくはそう言って、自分の分のカードを混ぜてシャッフルし始める。
「あのころみたいに、みんなそれぞれが同じ環境に身を置いてるわけじゃない」
混ぜたカードを机の上に配置する。
「でも、前に進むだけが成長じゃないし、昔みたいに変わらないでいてくれる奴がひとりくらいいた方が、ぼくは安心する」
「そう、なのか」
「誰かいないと、こうして話もできないじゃん」
「話なんて、ラインとかでもできるだろ」
「そういう意味じゃないって」
「じゃあ、具体的には?」
一瞬だけ口ごもる。口に出すのは、いささか恥ずかしくもあった。
「思い出、とか?」
「なんだよそれ」
よっしーが軽く吹き出す。自然な笑い方だった。
「今日、よっしーとここで話せて、ぼくは嬉しい」
「……」
「誰とも共有できない思い出ばかりあっても、むなしいだけだよ」
それに、と言ってぼくは山札からカードをめくる。
「いくらルールや環境も違うからって、やっぱりこのままじゃ悔しいからな」
よっしーは軽く下唇を噛みながら、伏し目がちにぼくの手元を見つめていた。けれど、次第にその口元が、静かに緩んでいくのをぼくは見過ごさなかった。
「もうすぐ学校帰りの子供たちが大勢来る時間なんだよ」
頭を掻きながらそう言うと、よっしーはおもむろに椅子に座りなおした。時間は四時を回るころだった。店内の床は西日の光に濡れている。ぼくが来てから今まで、客はひとりも来ていない。
「だから、泣きのもう一回戦ってことで、いいよな」
そう言って、よっしーはカードをシャッフルし始めた。ぼくは小さく頷く。その時、よっしーが見せた笑顔に、ぼくは当時の面影を見た気がした。
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