「いつも何度でも」生まれ変われる
作詞:覚和歌子
作曲:木村弓
「いつも何度でも」生まれ変われる
かなしみは 数え切れないけれど
その向こうできっと あなたに会える
かなしみを残り超えれば、愛しいあなたに会うことができる。
繰り返すあやまちの そのたび ひとは
ただ青い空の 青さを知る
どれだけ間違いを犯しても、青い空はただ青くそこにある。
果てしなく道は続いて見えるけれど
この両手は光を抱ける
この苦難の道に足を進めていかなければならないように見えるけれど、この話にとどまっていたとしても、両手には光を抱ける。
悲しみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっと歌おう
悲しい思いは捨てて、楽しい歌を歌おう。
閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
どんなに忘れ去りたい思い出で溢れていても、大事にしたい思い出も残っている。
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 移される
自分をバラバラにしてしまってさえ、その先の未来がある。
このように、
「生まれ変わり」という視点で「いつも何度でも」の歌詞を見たとき、ほんとにほとんどの部分が「君は生まれ変われるよ」と呼びかけているように思えました。
「いつも何度でも」なんなんだろう、と考えたとき、「いつも何度でも生まれ変われる」なのかな、と。
まさに生まれ変わる瞬間の「ゼロになるからだ」
「いつも何度でも」の歌詞で、「ゼロになるからだ」というフレーズはとくに印象に残ります。
さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる
はじまりのあさの 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ
ゼロになるからだってなんなんだろう、しかもゼロになるのに「充たされてゆけ」どはどういうことだろう、ってずっと思っていたんですが、
今まさに生まれ変わっている瞬間の歌詞だとすれば、「さよならのとき」「はじまりのあさ」なども合わせて腑に落ちます。
「呼んでいる胸の、どこか奥で」ではなく、「呼んでいる。胸のどこか奥で」
歌で聞いていると「呼んでいる胸の、どこか奥で」と覚えてしまうのですが、歌詞をよく見ると「呼んでいる 胸のどこか奥で」なんですよね。倒置法。
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心踊る 夢を見たい
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう
これらの歌詞、
「いつも心躍る 夢を見たい」
「いつも何度でも 夢を描こう」
って、胸のどこか奥で、誰かが呼んでいるのでは?
誰が? 生まれ変わる後の自分が、呼んでいる。
それでも変わらない確固たるもの
海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから
最後の歌詞のこれは、生まれ変わった後の言葉。生まれ変わってもなお保持し続ける大切なもの。あるいは、もはや四苦八苦して探す必要のない、自分の中の確固たるもの。
『千と千尋の神隠し』を、「生まれ変わり」という視点で見る
歌詞の一つひとつを、映画のワンシーンに当てはめて考える、という考え方は、この曲ではさすがにできなかったです。でも、ジブリ映画の主題歌ってどれもそんなものなのかな?
『となりのトトロ』と「さんぽ」の関係を考えたとき、主題歌とは、映画全体の雰囲気を投影するものなのかな、とぼんやりと考えながら歌詞をみたとき、「生まれ変わり」というキーワードを見つけた気がします。
『千と千尋の神隠し』を、千尋が生まれ変わる(=成長する)映画と見ることはもちろん可能ですし、神様たちの世界を描くこの映画にとって、「生」と「死」は身近なものであるし。
行って、帰ってくるこの物語には、この楽曲がぴったりなのだなと、思いました。