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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 4 230 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 4 勝頼の首 

勝頼父子、生害。

 斯くして、甲斐の武田は消滅した。
 
  歴々討死相伴(しょうばん)の衆、
  武田四郎勝頼・武田太郎信勝、
  長坂釣竿・秋山紀伊守・小原下総守・小原丹後守・
  跡部尾張守・同息・安部加賀守・土屋右衛門尉、
  りんがく長老(大竜寺鱗岳)、中にも、比類なき働きなり。
 
  以上、四十一人侍分、五十人上﨟達女の分。 
  三月十一日、巳の刻(10時頃)、各(おおおの)相伴、討死なり。

勝頼父子の首。

 滝川一益は、その首を信忠へ。
 
  四郎父子の頸、滝川左近かたより、三位中将信忠卿へ、
  御目に懸けられ侯のところに、

滝川一益の手柄である。

 信忠から、即刻、信長へ。
 信長には、腹案があった。
 戦後の仕置き、について。

  関可平次・桑原助六両人にもたせ、信長公へ御進上候。
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく



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