本能寺の変 1582 光秀という男 5 114 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀という男 5 1400年代
妙純は、成頼の後継問題に介入した。
明応元年(1492)。
この頃、土岐成頼は後継者問題を抱えていた。
妙純は、嫡男政房を推した。
成頼は、政房を廃して、末子元頼に家督を継がせようと考えた。
土岐成頼は、石丸利光と手を組んだ。
石丸利光は、妙純の家宰(執事)。
かなりの野心家だったようである。
妙純を裏切った。
美濃は、二つに割れた(船田合戦)。
守護家の実権をめぐる争いである。
土岐成頼・石丸利光 ✖ 土岐政房・斎藤妙純
父子、骨肉、下剋上。
正に、何でもアリ、の時代だった。
妙純がこの戦いに勝利した。
明応五年(1496)。
妙純は、石丸利光を滅ぼした。
利光の下剋上は、失敗に終わった。
⇒ 次回へつづく
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