「好き」の筋肉を鍛える「好きの筋トレ」のこと
「好き、というのは筋トレみたいなもので、自分で好きを意識してないと好きの筋肉はつきません」と教わったのは4年ぐらい前か?
2020年、鬱症状で休職することになった私に、「これからは好きなことをして、ゆっくりしてください」と、お医者さんは言った。
自分の好きって何だっけ?と、思った。
会社に診断書を提出して、「すぐに、帰りなさい」と言われてどうしていいのかわからなくて、所在なげに上野公園を歩いて空を見上げていたことを思い出す。
世界に、ポンと放り出されたような感覚。
ピンとはりつめていた糸がブツっと切れてしまって呆然とした。
「私の好きってなんだっけ?」
カフェに入ってぼーっと珈琲を飲みながら考えた。
夫の好き、息子の好き、娘の好き、そういうものはわかって、夕食の献立の時は彼らの好きなものを選ぶ。
買い物に行くと友人が好きそう、というものはわかる。人の顔と好きは結びついてるけど自分は何が好きだったっけ?
あまりに忙しすぎて、思考をグルグル使っていたから自分のことは置いてけぼりだった。
冒頭の「好きの筋トレ」の話はそんな時に言われたこと。
人は「好き」を意識しないで生きてるものなんだ、と。
自分の「好き」を意識してみる。
それは、五感を開いて感じてみることから始まった。
ある時、友人のお母さまの畑から野菜を送ってもらった。そのトマトをガブっと食べた時にそれはおとずれた。
新聞紙にくるまれた野菜を取り出して洗う
新鮮な畑の匂い、青い匂いと、弾ける感覚、トマトの甘さ
「わ!」と思った。
ハッとするぐらい太陽の味がした。
玉ねぎをよく研いだ包丁で切る
窓から明るい光が入ってくる
ストンという音と切れ味が気持ちいい
心地よさと好きが自分の中で融合した。
なんでもない日常、
その中に好きがあった。
朝起きて、ベランダの葉っぱたちに水をあげるとうれしそうにキラキラするのが好き
葉っぱが太陽に透けるのが好き
朝1番の空気の清々しさが好き
銅のやかんで沸かして自分のためにお茶を入れる時間が好き
いい香りのアロマや線香をつけて空間が気持ちよくなるのが好き
カリカリベーコンと目玉焼きとベビーリーフの組み合わせが好き
特別な場所に行かなくても、「好き」は身近にあふれていた。
それから4年経った今、ふと見回すと、ノートも万年筆もカップも身の回りにあるものは自分が「好き」で選んだものだ。
陸前高田のあの場所の珈琲
北海道の素晴らしい場所の香りが素晴らしいハーブティー
台湾で吟味して買った烏龍茶
友人のお母さまのかたみわけでいただいたコーヒーカップ
蔵から出てきたと送っていただいた塗りのお椀
書き心地のいいノート
友人が心を込めてつくっている調味料
自分でつくった梅干しやお味噌
友だちに勧められて京都の錦市場で買った名入りの包丁
これでいいや、と選んだものはない。
それぞれにストーリーがあり
それぞれにやさしさがあり
それぞれに作り手の顔が見えて
それぞれに自分が選んでいるという意思がある
ブランドものじゃないし、
誰かが見てるわけじゃないし、
特別高いとかそういうものじゃなくて、
誰からの評価も関係なくて
私の「好き」の直感で選んでむかえたモノたち
そうか、これでいいや、というのは自分の尊厳を落としてしまうことになるんだなぁ。
「何か買いたい」とストレス解消で買った洋服や、SALEの時に損したくないみたいに買った洋服は、結局着なくなってしまう。
クローゼットにギュウギュウにつまっていたものを手放した時に、すっと風が通った。
執着してたのは、何だったんだろう。
初めて自分の「好き」にまっすぐに買ったレモン柄のワンピース。
自分の中にいる小さな女の子が喜んだことを覚えてる。
好きを重ねていくと、「好き」を言うことに躊躇がなくなる。
私は、これが好き。
私の好きな私のために、好きなことをさせてあげよう。
忙しい時には「自分とデート」の時間をつくってあげる。
先に自分と約束する。
私をしあわせにする大好きな朝ご飯
私をしあわせにする大好きな空間
私をしあわせにする大好きな香り
私をしあわせにする大好きな時間
私をしあわせにする大好きなわたし
誰でもない唯一無二のわたし
好きの筋トレって、そういうことなのかもしれない
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?