温故知新(57)エチオピア王国 クシュ ペルセウス 須佐之男命 アンドロメダ 櫛名田比売(荒川戸畔) ブラウロンの遺跡 水窪遺跡 ペトログリフ
玉前神社、白山比咩神社、益田岩船は直角に配置されていることが知られています。上総国一宮 玉前神社とスーダンにあるプトレマイオスの喜望港、リメン・エヴァンゲリスと推定されているスアキンを結ぶラインの近くには、加賀一ノ宮 白山比咩神社(石川県白山市)があります(図1、2)。このラインは、益田岩船と雨の宮古墳群を結ぶラインとほぼ直角に交差し、交点付近に白山比咩神社があります(図1)。
鹿島神宮の東に高天原という地名があります(図3、4)。高天原(茨城県鹿嶋市)とスアキンを結ぶラインの近くには、榛名山(写真トップ)や善光寺(長野市)があり、このラインは富士山本宮淺間大社奥宮(静岡県富士宮市)と出羽三山神社(羽黒山神社)(山形県鶴岡市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。出羽三山神社と高天原を結ぶラインの近くには熊野神社(熊野大社)(山形県南陽市)や少彦名命の墓と推定される姫塚古墳があり、高天原と富士山本宮浅間大社奥宮を結ぶラインは皇居(旧江戸城)を通ります(図3)。高天原と富士山を結ぶラインの延長線は日前神宮・國懸神宮に至ります。
スアキンの西には、古代エジプト人がクシュと呼んだ地方の中心地だったドンゴラがあり、スアキンとモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くにはアスワンやローマがあります(図5)。クシュは現在の南エジプトと北スーダンに当たる北アフリカのヌビア地方を中心に繁栄した文明です。もともとエジプトとヌビアは同一の祖先から別れた国で、ヌビアは古代から金や鉄、銅などの鉱物資源に恵まれ、エジプトにとって重要な役割を担ってきました。スアキンにも高天原があったのかもしれません。古代ローマは、トロイ王家の血筋のオオカミに育てられた双子が建国したとする伝説があります。アスワンはエフェソス遺跡やトロイの考古遺跡とレイラインでつながっています。王政ローマの王の幾人かは先住民族のエトルリア人であったともいわれ、異民族の王を追放することによってローマは初期の共和政に移行しました。
伊吹山とレイラインでつながっているブラウロン(Brauron)の遺跡は、デルポイとロドス島を結ぶラインの近くにあります(図6)。デルポイとナクソス島のアパリロス城(Apaliros Castle)を結ぶラインは、ケオス島のカルタイア(Karthaia)の近くを通ります(図6)。ジェベル・イルード遺跡とギョベクリ・テペを結ぶラインは、シラクサやチャタル・ヒュユクの近くを通りますが、アルゴリス(Argolis)やカルタイア(Karthaia)の近くも通ります(図6)。木村鷹太郎が「奴(ぬ)国」としたのはアルゴリス国のアルゴス府ですが、アルゴリス(Argolis)は、ジェベル・イルード遺跡やギョベクリ・テペと関係があると推定されます。
静岡県浜松市の水窪遺跡(縄文時代の遺跡、紀元前600年頃と推定)では、古代フェニキア文字で刻まれているペトログリフが見つかっています。浜松市水窪民俗資料館とブラウロン(Brauron)の遺跡を結ぶラインの近くには、菊理媛神(白山比咩神・白山権現 豊玉姫命と推定)、伊弉諾尊、伊弉冉尊をまつる大山白山神社(岐阜県加茂郡白川町)、白山神社(郡上市八幡町、大和町神路、大和町古道)、和珥氏と関係があると推定される天照皇大神社(石川県加賀市山中温泉)があります(図7)。和珥氏は、フェニキア人と関係があると推定されます。
下記のブログによると、有吉佐和子氏は、生前に古代の日本に一部のフェニキア人が渡来していたという説を発表していたようです(縄文時代に、古代フェニキアと同じ染色技術「貝紫」が!)。開花天皇と推定される舟木命や、倭姫命の船旅を支えた伊勢船木直の船木氏、天海僧正の船木氏の「フナキ」は「フェニキア」に由来するのかもしれません。
八岐大蛇退治の神話に似たギリシャ神話があることが知られています。アルゴスの王子ペルセウスは、メデューサを退治した後、エチオピアにやってきますが、ケーペウス(ケフェウス)とカシオペア王妃が、アンドロメダ王女を海魔の生贄にしなければならず、嘆き悲しんでいます。ペルセウスは、メデューサの首で海魔を石に変えて退治し、アンドロメダと結ばれます。木村鷹太郎氏は、『星座とその神話』で、「ペルセウス」を「須佐之男命」、「アンドロメダ」を「櫛稲田姫」としています1)。そうすると、ペルセウスを生んだアルゴスの王女ダナエーが伊弉冉命に相当します。氣比宮(ケフェウス)が仲哀天皇ではなく品陀真若王で、橿日(かしひ)宮(カシオペア)が神功皇后とすると、ペルセウスやアンドロメダと整合しませんが、それぞれ例えられた時代が異なるためと思われます。
アンドロメダ姫は、エチオピア王国の王女ですが、古い時代の文献ではエジプト以南を「エチオピア(アイティオピア)」と呼んでいたので、クシュ人を「エチオピア人」と呼んでいる場合もあるようです。 ソロモン王とシバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国(100年–940年)が、紅海沿岸の港町アドゥリス(現在のエリトリアのマッサワ近郊)を通じた貿易で繁栄していました。
クシナダヒメは、『出雲国風土記』の飯石郡の項では久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)という名前で登場します。須佐之男命と櫛名田比売との娘が、瓊瓊杵尊(饒速日尊と推定)の后の丹生津姫命(市寸島比売命と推定)と推定され、丹生氏系図の久志多麻命が、瓊瓊杵尊(饒速日尊)と推定されるので、久志多麻命の兄弟の荒川戸畔が、久志伊奈太美等与麻奴良比売命(櫛名田比売)と思われます。荒川戸畔は男性とされているようですが、下記のブログにもあるように、丹敷戸畔などの「戸畔(とべ)」は女性を表すと考えられます。
櫛名田比売が、多氏と推定されることとも整合します。多氏はオシリスと関係があると推定されるので、木村鷹太郎が邪馬台国としたエジプトともつながります。
文献
1)木村鷹太郎 2001 復刻版 「星座とその神話」 八幡書店