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温故知新(16)倭建命(孝元天皇 景行天皇(吾賀古君) 成務天皇(稚足彦尊 真若王 吉備兄彦皇子)) 仲哀天皇(小碓命 吉備武彦命 讃王 日本武尊) 五百城入彦皇子(彦人大兄命 大枝王 弟彦公) 八坂入媛命(訶具漏比売 伊那毘能若郎女 大橘比売命) 弟橘比売命(弟財郎女) 海部氏

 ヤマトタケルは「やまと」の勇者の意味で、実在の人物ではなく、『日本書紀』『古事記』の伝える話は、各地の伝承を一つの人格にまとめたものとみられています1)。日本武尊の妃となって仲哀天皇を生んだとされる両道入姫命については、記紀ともに一致して記載している仲哀天皇の享年から計算できる生年(成務天皇18年)が日本武尊の死去から38年後にあたるという矛盾があることが知られています。また、佐伯有清氏は、日本武尊などは、後世につくられた物語上の人物とみなされ、伝承の分析によって浮かびあがってくる本来の天皇系譜(図1)は、崇神・垂仁・景行・五百城入彦・品陀真若王・仲姫であったようだと『日本書紀Ⅰ』(中央公論新社)の「解題」に記しています2)。

古代天皇系図-1
図1 古代天皇系図 出典:千田稔監修 別冊歴史REAL 古代史に秘められた飛鳥の謎 洋泉社

 景行天皇と播磨稲日大郎姫の子には、後に日本武尊(やまとたけるのみこと)となった小碓命(おうすのみこと)がいます。『古事記』では、倭建命(やまとたけるのみこと)の曾孫(ひまご)の訶具漏比売(かぐろひめ)が景行天皇の妃となっていることから、日本武尊と倭建命は別人と考えられます。

 播磨国は、兵庫県の南部にあり、7世紀に針間国(加古川以西)に明石国などが編入されてできた国で、第13代成務天皇の時(4世紀中頃)に針間国、針間鴨国、赤石国(明石国)の3国が定められ、それぞれの国に首長(国造)を任じたとされています。律令制成立以前の吉備国は、現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部を含んでいたことから、景行天皇の時代には、針間国が吉備国に接していたと考えられます。

 播磨国風土記(はりまのくにふどき)に第12代景行天皇の恋の説話が載っており、播磨稲日大郎姫が、景行天皇の妻問いを受け入れ、結ばれた場所が、「賀古」の六継の里(加古川流域の里)とされています。また、「吾君」(あぎ)は、親しみを込めて相手を呼ぶ語とあります。したがって、丹生氏の系図(図2)にある「神奴小牟久(垂仁天皇と推定)」の子の「吾賀古君」は、景行天皇と推定されます。

図2 社家丹生氏参考系図 出典: http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_nyuu.html

 『日本書紀』に景行天皇の皇子の吉備兄彦皇子(きびのえひこのおうじ)が見られ、八坂入媛命の子とされています。丹生氏の系図(図2)では、「兄彦」にあたると推定されます。『古事記』の播磨稲日大郎姫の妹とされる伊那毘能若郎女は、兄の真若王(まわかおう)と弟の彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)を生んでいますが、伊那毘能若郎女は八坂入媛と同一人物で、真若王が稚足彦尊(わかたらしひこのみこと 第13代成務天皇)で、彦人大兄命が五百城入彦皇子(いほきいりびこのみこ)と推定されます。丹生氏の系図(図2)では、「兄彦」と「弟彦」にあたると推定されます。

 迦具漏比売は、彦人大兄命と同一人物と推定される大枝王(おおえのおう)をもうけたとされるので、八坂入媛と同一人物と推定されます。古代天皇系図(図1)では、開花天皇の子が崇神天皇とされていますが、実際は孝元天皇(菟道彦命)の子が崇神天皇(豊耳命)と考えられ、八坂入媛命の父は崇神天皇の子の八坂入彦命であることから、孝元天皇の曾孫が八坂入媛命(訶具漏比売)にあたります。倭建命の曾孫が訶具漏比売なので、孝元天皇は倭建命と考えられます。

 『古事記』では、景行天皇の后の播磨稲日大郎姫は、彦五十狭芹彦命(大吉備津彦命 吉備津彦命)の異母弟である稚武彦命(若建吉備津日子命)の娘で、櫛角別王(くしつのわけのみこ)、大碓命(おおうすのみこと)、小碓命、倭根子命(やまとねこ)、神櫛王(かむくしのみこ)らの母親とされています。香川県に伝わる讃留霊王(さるれお、讃王)伝説(Wikipedia)によれば、景行天皇23年に讃留霊王は勅命を受け、讃岐入りして瀬戸内の悪魚退治を行い、同地に留まり仲哀天皇8年に薨去したといわれています。また、この讃留霊王(讃王)について、古事記伝などでは景行天皇の御子神櫛王とし、古事記には武貝児王、日本書紀には日本武尊の御子である霊子(武殻王)としています。讃留霊王は、東讃では神櫛王のこととし(櫛梨神社社伝等)、西讃では武卵王(たけかいごのみこ:日本武尊(やまとたけるのみこと)の子)のこととしています。したがって、讃留霊王(神櫛王)が日本武尊の子とすると、景行天皇が日本武尊(倭建命)と考えられます。

 『常陸国風土記』では、倭建命の后である弟橘比売命(おとたちばなひめ 穂積氏忍山宿禰の娘)の姉が大橘比売命あるいは橘皇后として登場し、夫の日本武尊は倭武天皇と表記され、天皇、皇后と称されています。弟橘比売命は、第13代成務天皇の妃の弟財郎女(おとたからのいらつめ 穂積氏の遠祖・建忍山垂根の娘)と同一人物と考えられ、成務天皇は倭建命で、景行天皇は倭武天皇、大橘比売命は八坂入媛命と推定されます。ヤマトタケルを天皇とする記録は、『阿波国風土記』にもあるようです3)。したがって、ヤマトタケルは、天皇(大王)を含む複数の人物だったと考えられ、ヤマトタケルの名は、武勇にすぐれた倭国(やまとのくに)の大王(おおきみ)が引き継いでいたのかもしれません。あるいは、ヤマトタケルは、『日本書紀』では主に日本武尊ですが、『古事記』では主に倭建命と表記され、「」には「作りあげる」という意味があるので、倭国の建国に貢献した大王の意味があるのかもしれません。天皇の名称は、7世紀の第40代天武天皇の頃に、旧来の大王に代わって定められたといわれているので、天皇とされた人物が複数、同時期に存在する場合もあったと考えられます。

 『古事記』に「若帯日子天皇(成務天皇)、近つ淡海(近江)の志賀の高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とありますが、滋賀県大津市にある近江国一宮の建部大社は、本殿に日本武尊、権殿に大己貴命(大国主命)を祀っています。建部の起原は、父の景行天皇が、御名代として建部を定め、日本武尊の功名を伝えたことによります。したがって、建部大社は、ヤマトタケルである稚足彦尊(成務天皇)と大国主命(孝元天皇)を祀っていると推定されます。また、建部大社末社の弓取神社(ゆみとりじんじゃ)に祀られている弟彦公は、弓の名手だった弟彦公(五百城入彦皇子)を祀っていると推定されます。

 『日本書紀』には、成務天皇には男無とありますが、弟橘媛は若建(わかたけるの)王を生み、『古事記』では、成務天皇の后の弟財郎女は和訶奴氣(わかぬけの)王を生んでいるので、成務天皇に子はあったと推定されます。成務天皇は、即位5年、諸国に国造と稲城を置き山河で国境を定めたとされ、『先代旧事本紀』の「国造本紀」に載せる国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えています。一方で、『古事記』には倭建命が焼津(相武(さがむ)の小野)で相武国造(さがむのくにのみやつこ 相模国東部を支配した国造)に火攻めにあい、倭比売命より賜った草薙剣によって難を逃れたとされます。

 静岡県焼津市にある焼津神社は、主祭神が日本武尊で、相殿神が吉備武彦命となっています。吉備武彦は、日本武尊東征の従者の一人ですが、吉備武彦命は『新撰姓氏録』では、左京皇別 下道朝臣条・右京皇別 廬原公条で稚武彦命(第7代孝霊天皇皇子)の孫とし、右京皇別 真髪部条では稚武彦命の子としています。『日本書紀』によると、吉備武彦は、日本武尊と美濃で合流したのち日本武尊が病を得ると、吉備武彦はその遺言を伝える使者として景行天皇の元に遣わされたとされています。日本武尊は、伊吹山で毒気にあてられて重病になり三重の能煩野で亡くなったとされていますが、『古事記』では、倭建命の薨去の段の最後に、膳夫(かしわで 食膳係)で久米直(くめのあたへ)の祖である七拳脛(ななつかはぎ)を記し、関連を示唆しているように思われます。

 大久米命(おおくめ の みこと)は、久米直の祖として伝えられている豪族で、目のまわりに入れ墨をしていたとされています。岡山県倉敷市上東遺跡では、1~2世紀ころの顔に入れ墨のような線刻のある土器が見つかっているので4)、久米直の祖は、吉備津彦命(大吉備津彦)が吉備国を平定する(言向け和す)前から吉備に住んでいた、長江文明に由来する渡来系弥生人の百越(越人)ではないかと思われます。
  
 静岡市一帯には、4世紀代の谷津山古墳(やつやまこふん)や三池平古墳があり、清水区庵原付近に久佐奈岐神社が、有度山北麓に草薙神社が鎮座しています(図3)。谷津山古墳は、廬原国造(いおはらのくにみやつこ 駿河国西部を支配した国造の祖は『新撰姓氏録』によると稚武彦命)の墓と推定され、久佐奈岐神社(くさなぎじんじゃ)の社伝によると、日本武尊が東征の際に当地に本宮を設け、後に東征の副将軍であった吉備武彦が当地を治めることになったときに、本宮の跡に社殿を築いて日本武尊を祀ったのに始まると伝えています。日本武尊を主祭神とし、妻の弟橘姫命、および随伴の吉備武彦命・大伴武日連命・膳夫七掬胸脛命を配祀しています。静岡県菊川市上平川(図3)に上平川大塚古墳があり、孝元天皇の陵墓と推定される備前車塚古墳出土鏡と同型の三角縁神獣鏡が出土しています。久佐奈岐神社と上平川を結ぶライン上に谷津山古墳があります(図3)。

図3 久佐奈岐神社と上平川を結ぶラインと三池平古墳、草薙神社、谷津山古墳、焼津神社

  神津島とオリンポス山を結ぶラインは、焼津神社や恵那山を通り、上平川と久佐奈岐神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。

図4 神津島、上平川、久佐奈岐神社を結ぶライン、神津島とオリンポス山を結ぶラインと焼津神社、恵那山

 草薙神社(くさなぎじんじゃ)は、景行天皇53年に天皇が日本武尊ゆかりの地を巡幸した際、天皇が当地に着き日本武尊の霊を奉斎したのが創建とされ、建部大社とほぼ同緯度にあります(図5)。したがって、焼津神社、久佐奈岐神社、草薙神社は、成務天皇を祀っていると推定されます。日本武尊が争った相武国造は、毛野氏族の壬生氏(みぶし)で、成務天皇が定めた国造とされ、この時の日本武尊は、吉備武彦(小碓命)と推定されます。

図5 草薙神社と建部大社を結ぶライン

 『古事記』、『日本書紀』では、ヤマトタケルが東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとして返り討ちにあったとする神話が残されています。伊吹山の近くの美濃国二宮伊富岐神社は、『新撰姓氏録』で「尾張連同祖、火明命之後也」とする伊福部氏の氏神だったので、伊吹山の神と戦ったヤマトタケルは吉備武彦(小碓尊)と推定されます。「伊福部」は、「五百木部」とも書くので、五百木之入日子命(五百城入彦皇子)と関係があると推定されます。

 『日本書紀』によると、仲哀天皇は、容姿端正で身長十尺(ひとつゑ)とされ、小碓尊も容貌がすぐれ身長は一丈(ひとつゑ)あったとされています。したがって、仲哀天皇は、小碓尊(後の日本武尊)と同一人物と推定されます。『日本書紀』によれば、仲哀天皇は、稚足彦天皇(成務天皇)に嗣子がなく31歳で立太子、皇太子13年を経て先帝崩御二年後に即位したとされています。白鳥となって天に昇った父の日本武尊を偲んで諸国に白鳥を献じることを命じたところ、異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺したとあります。したがって、瀬戸内の悪魚退治をしたとされる讃留霊王は、仲哀天皇(小碓尊)と推定されます。

 『日本書紀』によると、小碓命の従者には美濃国の弓の名手である弟彦公が選ばれたとあり、弟彦公は、異母弟の蘆髪蒲見別王で、五百城入彦と推定されます。『古事記』では、美濃国は三野國となっていて、吉備国の三野県で旭川上流の御津郡(旧御野郡・津高郡)にあたるようです。御野郡は古代から近世を通じて「三野」の表記と併用され、平城宮跡からは、木簡「備前国三野郡津嶋郡の異体字里」「御野郡津嶋」が出土しています。御津郡には建部町があり、伊福部(五百木部)連の居住地は、かつて「吉備国御野郡伊福郷」と称され、尾針神社(おはりじんじゃ)があります。近くにある造山古墳(写真トップ)と同緯度にあるので、造山古墳は、弟彦公(五百城入彦皇子)の墓と推定されます(図6)。

図6 尾針神社と造山古墳を結ぶライン

 『古事記』によれば、小碓命にほろぼされたのは、熊曾(襲)の首長で、兄建(えたける)と弟建(おとたける)の兄弟とされています。阿蘇氏系図によると、神武天皇の子の神八井耳命の五世孫の武五百建命が崇神天皇の世に阿蘇国造となり、その後裔が、阿蘇神社神主家で宗家は宇治姓を称しています。このことから、武五百建命は、倭建命(菟道彦 宇治天皇 孝元天皇 大国主命)の子孫と思われます。『日本書紀』によれば、景行天皇が、阿蘇の国に至った時に、阿蘇都彦・阿蘇都媛が出迎えています。景行朝の記述に、熊襲は頭を渠帥者(いさお)と呼び、その下に小集団の頭たる梟帥(たける)がいたとあり、『古事記』に記された熊曾建兄弟の弟建は、川上梟帥(かわかみのたける)です。亡くなる前に小碓尊に日本武尊の名前をおくったとされる弟建(川上梟帥)の話は、弟彦公(五百城入彦)を暗示していると思われます。
 
 崇神天皇陵に比定されている行燈山古墳と吉備の中山茶臼山古墳は、大きさがほぼ2分の1の相似形であることが指摘されています。中山茶臼山古墳は俗に「御陵」と呼ばれ吉備津彦命の墓と伝えられていますが、「御陵」は天皇、皇后、皇太后、太皇太后の墓をいいます。崇神天皇の陵墓は、吉備の浦間茶臼山古墳と推定され、開花天皇の陵墓と推定される椿井大塚山古墳と同様に、卑弥呼の墓と推定される箸墓古墳の2分の1の相似形です。同様に考えると、狭穂姫命の墓と推定される行燈山古墳の2分の1の相似形である中山茶臼山古墳は、景行天皇の陵墓と推定されます。景行天皇の母親は、日葉酢媛命とされていますが、実際は、景行天皇は、垂仁天皇の第一皇子で、狭穂姫命を母とする誉津別命(ほむつわけのみこと 本牟智和気御子)と思われます。天太玉命(伊弉諾尊と推定)を祀っている大麻比古神社とオリンポス山を結ぶラインの近くに、中山茶臼山古墳や奥宇賀神社(島根県出雲市)があります(図7)。

図7 大麻比古神社とオリンポス山を結ぶラインと中山茶臼山古墳、奥宇賀神社

 誉津別命は、ひげが胸先に達したことや、泣いてばかりいたことなど、須佐乃男命と関連付ける伝承が残されています。丸谷憲二氏は、誉津別命が鵠(くぐい、今の白鳥)と遊ぶことにより、言葉を発するようになった場所を岡山県の久々井と推定しています。誉津別命と思われる景行天皇の名前は、『古事記』では、大帯日子淤斯呂和氣天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)で、地名の「和気」と関係があると推定されます。岡山県和気郡和気町に和気清麻呂公生誕の地として知られる和気神社があり、和気神社の南に久々井(備前市)の地名があります。久々井(備前市)とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに熊山遺跡があり、オリンポス山と久々井(東区)を結ぶラインの近くに金蔵山古墳があります(図8)。須佐之男命と関係付けていると推定されます。兵庫県豊岡市には木の神「久久能智神」(くくのちのかみ)を祀る久久比神社(くくひじんじゃ)があり、古くは胸形(宗像)大明神とも称したので、「久々井」は須佐之男命に由来すると思われます。

図8 久々井(備前市)とギョベクリ・テペを結ぶラインと熊山遺跡、オリンポス山と久々井(東区)を結ぶラインと金蔵山古墳

 景行天皇は『播磨国風土記』で渡し守から冷遇されていることからも、和気の出身と思われます。狭穂姫命の「狭穂」は、奈良盆地北部の佐保川のある佐保の地名に基づいているので5)、奈良の大和の天津神系の祭祀女王と考えられ、景行天皇は吉備の国津神系の大王であったと推定されます。

 宮崎県西都市にある西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)に、男狭穂塚古墳(おさほづかこふん)と女狭穂塚古墳(めさほづかこふん)がありますが、「狭穂」の名前から、狭穂彦王や狭穂姫命との関連が推定されます。西都原古墳群(東経131度23分)のほぼ真北に宇佐神宮(東経131度22分)があります(図9)。いずれも5世紀前半の築造と推定されるので、仲哀天皇と戦った熊襲と関係があるかもしれません。男狭穂塚古墳の被葬者としては、景行天皇と襲の国の御刀媛(みはかしきひめ)の子の豊国別皇子と想定されています6)。景行天皇と襲の国(熊襲)は友好関係にあったと推定されます。

図9 宇佐神宮と西都原古墳群

 鵜戸神宮(宮崎県日南市)、霧島神宮(鹿児島県霧島市)、男狭穂塚古墳を結ぶ三角形のラインと引くと、鵜戸神宮とモン・サン・ミシェルを結ぶラインは、霧島神宮と男狭穂塚古墳を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図10)。鵜戸神宮とモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くには疋野神社(熊本県玉名市)があり、霧島神宮と男狭穂塚古墳を結ぶラインの近くには高千穂峰大将軍神社(宮崎県西都市)があり、男狭穂塚古墳と鵜戸神宮を結ぶラインの近くには女狭穂塚古墳、神武天皇をまつる宮崎神宮(宮崎市神宮)があります(図10、11)。

図10 鵜戸神宮、霧島神宮、男狭穂塚古墳を結ぶ三角形のラインと高千穂峰、大将軍神社、宮崎神宮、鵜戸神宮とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと疋野神社
図11 図10のラインと女狭穂塚古墳

 宮崎県宮崎市生目(いきめ)にある生目神社は、応神天皇と藤原景清を祀っていますが、大分県大分市生石港町にある生目神社と結ぶラインは西都原古墳群を通ります(図12)。垂仁天皇は『令集解』所引「古記」に「生目天皇」とあるので、「生目」の由来は垂仁天皇と推定され、生目神社には、元は、景行天皇の父親の垂仁天皇が祀られていたと推定されます。

図12 生目神社(大分市生石港町)と生目神社(宮崎市生目)を結ぶラインと西都原古墳群

 宇佐神宮の八幡大神(誉田別尊)は、豊国別皇子と関連付けられていることから、景行天皇と推定されます。第15代応神天皇は、『日本書紀』では、譽田天皇(ほむたのすめらみこと)、誉田別尊(ほむたわけのみこと)、古事記では、品陀和氣命(ほむだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)と記され、八幡大菩薩と称されています。しかし、八幡神を応神天皇とした記述は『古事記』『日本書紀』『続日本紀』にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係だったようで、八幡神が応神天皇と考えられるようになったのは、9世紀になってからのようです。百枝八幡宮に祀られている高倉下命(孝元天皇)は、倭建命と推定されるため、八幡神は倭建命と推定されます。

 景行天皇の皇子の豊国別皇子は実際にいたと推定されるので、景行天皇の九州巡幸もあったと考えられます。『日本書紀』によると景行天皇の宮は、纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)です。「纒向」には「日代宮」の跡は見つかっておらず、纏向の珠城宮と同様に、宮は「纒向」とは関係なく「日代」にあったと推定されます。景行天皇は、日代宮を作った後すぐに九州に遠征したことになっています。大分県津久見市網代に日豊本線の「日代(ひじろ)駅」があり、津久見市網代には、日代小中学校(休校)や日代郵便局があり、崇神天皇に関係する「御牧」と同様に「日代」という名前は、地元でこだわりのある名前と考えられます。日代駅とパレルモを結ぶライン上には、丹生神社(大分市佐野)があります(図13)。また、パレルモと津久見市四浦の天満神社(津久見市四浦深良津)を結ぶラインの近くに宇佐神宮があります(図13)。

図13 日代駅とパレルモを結ぶラインと丹生神社、パレルモと天満神社(津久見市四浦深良津)を結ぶラインと宇佐神宮

 日代地区の網代島(あじろじま)(図14)では、2億4千万年前の流れ星のかけら(宇宙塵(うちゅうじん))が見つかっています。モン・サン・ミシェルのように干潮時に島に繋がる道ができるようです。津久見湾の東端に「保戸島(ほとじま)」があり、名前の由来は、景行天皇が美しい海藻に感動し、「最勝海藻の門(ほつめのと)」と名付けたことによるとされています。保戸島には、賀茂神社があり(図14)、天文4年(1535年)に京都上賀茂神社から別雷神が勧請され祀られています。

図14 日代駅とパレルモを結ぶライン、パレルモと天満神社(津久見市四浦深良津)を結ぶライン、網代島、本教寺、賀茂神社(保戸島)

 『豊後風土記』には、景行天皇の九州巡幸の際、着船した地として豊後国海部郡(あまべぐん)の宮浦が記されています。海部郡の「海部」は「海部氏(あまべうじ)」に由来すると考えられ、『和名類聚抄』には、海部郡に、丹生郷などの10郷があったと記されています。佐伯市の木浦鉱山は、一説では600年代に始まると伝わり、金、銀、銅、錫などの鉱物が採れていたようです。弥生時代から制作されていた銅鐸・銅剣は青銅製で、銅と錫の合金なので、古代から金、銀、銅、錫などの鉱山は開発されていたと考えられています。海部郡は津久見湾の全域を含み、景行天皇が着船した宮浦は津久見湾と推定されます。四浦深良津の天満神社の近くには硅石の鉱山があり、落ノ浦にある本教寺(図14)には十一面観音菩薩が祀られています。天満神社(津久見市四浦深良津)の近くに景行天皇の日代宮があったのかもしれません。

 『常陸国風土記』では、日本武尊は倭武天皇と表記され、妃は大橘比売命あるいは橘皇后として登場します。千葉県大網白里市にある縣神社(あがたじんじゃ)は、 大日孁尊(おおひるめのみこと)、橘比賣命、譽田別命を祭神としていますが、成務天皇の代に、当時の地方官庁である主が奉仕した神社であると伝承されています。橘比賣命は、大橘比売命あるいは橘皇后で、景行天皇の后と推定されるので、譽田別命は、景行天皇と推定されます。

 千葉県船橋市宮本に、式内社・旧縣社の意富比神社(おおひじんじゃ 船橋大神宮)があり、景行天皇40年、皇子日本武尊が東国御平定の折、当地にて平定成就と、旱天に苦しんでいた住民のために天照皇大御神を祀ったのが創始とされています。意富比神社(船橋大神宮)は、氣比神宮とほぼ同緯度にあることから(図15)、意富比の「意富」は多氏の「意富」で、日本武尊は成務天皇と推定されます。本殿の屋根の千木は内削ぎで、鰹木は偶数なので女神を祀っていると考えられ、須佐之男命の妃の大日孁貴(おおひるめのむち・天照大御神)を祀っていると推定されます。

図15 氣比神宮と意富比神社(船橋大神宮)

 縣神社は、元は土気古城にあったといわれ、土気城址とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに意富比神社の元宮とされる船橋市海神にある入日神社(いりひじんじゃ)があります(図16)。

図16 土気城址とギョベクリ・テペを結ぶラインと縣神社、意富比神社、入日神社

 土気城址と意富比神社を結ぶラインの近くには、素盞嗚尊、宇迦之御魂神、伊弉冉尊をまつる検見川神社(千葉市花見川区)があります(図17)。土気城址とモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くに伊勢山天照神社(我孫子市)があり、このラインは、意富比神社と香取神宮(千葉県香取市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図17)。

図17 土気城址、意富比神社、香取神宮を結ぶラインと検見川神社、土気城址とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと伊勢山天照神社

 伊勢山天照神社の祭神は、大日霊売命で、景行天皇の東国巡行の際に葛飾野に狩猟せられた跡と伝えられています。「我孫子(あびこ)」の由来は、日本武尊説・漁村説・アイヌ説等、様々な説がありますが、古代の氏(一族の名)や姓(職能や地位)によるという説が最も有力とされています。もしかすると、景行天皇と推定される「吾賀古君」の「吾賀古(あがこ)」に由来するのかもしれません。「賀古」を「孫子」としたのは、景行天皇の子が成務天皇や五百城入彦皇子で、孫が品陀真若王だからかもしれません。大阪市住吉区にも「我孫子」という地名があるので、「住吉」と「景行天皇」で検索したところ、下記の資料がありました。

万葉集には「住吉の現人神」(6-1020,1021)の1例ある。この用例の用字は「荒人神」である。記には用例がなく、紀には①「吾は是現人神の子なり」(景行紀)②「現人之神なり」(雄略紀)の2例があり、『和名抄』に「現人神 和名安良比止加美」とある。『攷証』には「荒は現にて御形の人と現れませるよし也」と説かれている。①の用例は、日本武尊の言葉として発せられたもので、具体的には景行天皇をさしている。

出典:あらひとがみ 國學院大學デジタルミュージアム

 意富比神社と同じく景行天皇40年の創建と伝わる天手力男命 (あまのたぢからおのみこと)を祀る大戸神社(千葉県香取市)と意富比神社を結ぶラインは、縣神社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図18)。縣神社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くには、大篠塚麻賀多神社(千葉県佐倉市)、第10代崇神天皇の皇子、豊城入彦命の創建と伝えられる大神神社(栃木市)があります(図19)。

図18 縣神社、意富比神社、大戸神社を結ぶライン、縣神社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと大篠塚麻賀多神社、大神神社

 船橋大神宮と大國魂神社(東京都府中市)を結ぶラインの近くには、水天宮(東京都中央区)、皇居、縄文時代中期の塚山遺跡(杉並区)があります(図19)。大國魂神社と筑波山神社(茨城県つくば市)を結ぶラインは、船橋大神宮とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、船橋大神宮とオリンポス山を結ぶラインの近くには、世良田東照宮(群馬県太田市)、観音寺(御園観世音)、日前神社(新潟県上越市高住)があります(図20)。

図19 船橋大神宮と大國魂神社を結ぶラインと水天宮、皇居、塚山遺跡、大國魂神社と筑波山神社と船橋大神宮を結ぶライン、船橋大神宮とオリンポス山を結ぶラインと世良田東照宮
図20 船橋大神宮、大國魂神社、筑波山神社を結ぶライン、船橋大神宮とオリンポス山を結ぶラインと世良田東照宮、観音寺(御園観世音)、日前神社

 埼玉県秩父市にある三峯神社は、社伝によるとヤマトタケルによって創建されたとされ、御嶽神社は多くがヤマトタケルを祀っています3)。武蔵御嶽神社(東京都青梅市)とチャタル・ヒュユクとを結ぶラインの近くには、三峯神社奥宮や上田市の御嶽神社(長野県上田市)や佐野八幡神社(石川県七尾市)があります(図21)。このラインは、宝登山神社奥宮鶏冠神社(奥宮)(山梨県甲州市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図21)。

図21 チャタル・ヒュユクと武蔵御嶽神社を結ぶラインと御嶽神社、三峯神社

 さいたま市大宮区高鼻町にある武蔵一宮氷川神社は、須佐之男命、稲田姫命、大己貴命を祀っています。氷川神社は、富士山と筑波山を結んだ直線状に鎮座していることが知られています(図22)。筑波山神社の祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊、加具土命です。崇神天皇の代に、筑波、新治、茨城の三国が建置され、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、筑波山神社に奉仕したとされています。富士山浅間大社奥宮の祭神は、浅間大神(木花之佐久夜毘売命)、大山祇神、瓊々杵尊です。富士山と筑波山を結ぶライン上には、御正体山(みしょうたいやま)があり(図22)、山頂には御正体権現が祀られ、山梨県都留市小野に里宮である若宮神社がありますが、若宮神社には、伊弉諾命と大雀命が祀られています。

図22 富士山頂上浅間大社奥宮と筑波山神社を結ぶラインと武蔵一宮氷川神社

 若宮神社と御正体山を結ぶラインの延長線上に倭建命ゆかりの地である足柄峠があるので(図23)、若宮神社には、元は倭建命が祀られていたと思われます。

図23 若宮神社(都留市小野)と足柄峠を結ぶラインと御正体山

 岡山市北区にある造山古墳(写真トップ、1、2)と岡山県瀬戸内市にある築山古墳(つきやまこふん)(写真3、4)は、いずれも北緯34度40分にあり(図24)、また、いずれも阿蘇ピンク石、あるいは馬門石(まかどいし)とよばれる熊本県宇土半島から産出する阿蘇溶結凝灰岩を使用した石棺が使用されていることから、造山古墳と築山古墳の被葬者は親族関係にあると推定されます。築山古墳の後円部の墳頂中央にあった竪穴式石室は、明治40年(1907年)に発掘され墳頂部が削り取られ、家型石棺が露出しています(写真4)。造山古墳の前面にある円墳榊山古墳は、明治45年(1912年)に乱掘にあっています。

写真1 造山古墳 後円部から前方部を望む
写真2 造山古墳前方部上の荒神社脇にある阿蘇凝灰岩製の長持型石棺の身
写真3 築山古墳
写真4 築山古墳後円部上にある阿蘇凝灰岩製の家型石棺
図24 築山古墳、造山古墳、作山古墳

 『日本書紀』によると、日本武尊は、最初に伊勢国の能褒野陵に葬られましたが、白鳥になり陵から出て、倭国(やまとのくに)を指して飛び、陵に屍骨(みかばね)は無かったと記されています。『日本書紀』では、倭(奈良)の琴弾原、河内(大阪)の旧市邑にとどまったとされたことから、2カ所に白鳥陵(しらとりのみささぎ)が作られました。皇子の墓を「陵」というのは、『古事記』、『日本書紀』においてヤマトタケルの陵のみで例外的とされています。『古事記』では、倭(奈良)の記載はなく、河内国之志紀に留まったされています。『日本書紀』では、倭国(やまとのくに)の都が奈良にあったとするため、倭(奈良)の琴弾原を追加したのかもしれません。白鳥は、白鳥陵からさらに高く飛んで天に上り、陵にはただ衣冠だけを葬りまつったとされ、場所の記載はありませんが、日本武尊の功名を伝えるため武部(たけるべ)を定めたとあります。建部村は、三重県安濃郡(たてべむら)、滋賀県神崎郡(たけべむら)、岡山県御津郡(たけべそん)などにあり、最終的に、倭建命の屍骨は吉備国に葬られたことを示していると推定されます。

 築山古墳、楯築遺跡、石上布都魂神社を結ぶラインを引くと、天照大神(神大市比売 大日孁貴 倭国香媛)の墓と推定される楯築遺跡と石上布都魂神社を結ぶラインは、築山古墳とチャタル・ヒュユクを結ぶラインとほぼ直角に交差し、築山古墳とチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くには、石見神社(鳥取県日野郡日南町)、金屋子神社(安来市)、奥宇賀神社(出雲市奥宇賀町)があります(図25)。築山古墳は、成務天皇の墓と推定されますが、築山古墳は、5世紀後半から6世紀前半に築造されたと考えられているので、4世紀末の築造と推定され、宮内庁により日本武尊の墓に治定されている「能褒野墓」から遺骨が移されたと推定されます。

図25 築山古墳、楯築遺跡、石上布都魂神社を結ぶライン、築山古墳とチャタル・ヒュユクを結ぶラインと石見神社、金屋子神社、奥宇賀神社

 築山古墳とアルテミス神殿を結ぶラインを引くと、木鍋八幡宮(岡山県瀬戸内市)、大山咋命を祀る日吉神社(岡山市東区瀬戸町)、大山祗命と岩長姫命を祀る縄久利神社(島根県安来市)、熊野大社元宮 斎場跡(島根県松江市)、須我神社(島根県雲南市)の近くを通ります(図26)。孝元天皇と同様に、成務天皇はアルテミスと関係付けられていると推定されます。

図26 築山古墳とアルテミス神殿を結ぶラインと木鍋八幡宮、日吉神社、縄久利神社、熊野大社元宮 斎場跡、須我神社

 大阪府東大阪市の石切劔箭神社は、生駒山中の宮山に可美真手命(うましまじのみこと)が饒速日尊を祀ったのが起源とされ、崇神天皇時代に可美真手命が祀られたとされます。宮山は、築山古墳と同緯度にあり(図27)、石切劔箭神社上の社・元宮の境内にある「婦道神社」は、弟橘媛を祀り、西向きに鎮座しています。これは、成務天皇(倭建命)と弟橘媛の関係を示していると推定され、築山古墳の被葬者が成務天皇(倭建命)と推定されることと整合します。

図27 築山古墳と石切劔箭神社元宮(宮山)

 岡山市北区吉備津にある吉備津神社は、一説によると仁徳天皇が吉備海部直の娘である黒媛を慕ってこの地に行幸したときに、吉備津彦の功績を聞き称えるために社殿を創建してお祀りしたのが起源とも伝わっているようです。吉備海部直(きびのあまべのあたひ)の本拠地は、大伯国(邑久郡、現・瀬戸内市)を中心とする地域であったと考えられ、成務天皇の墓と推定される築山古墳がある地域です。記紀に伝えられる神武天皇の東征経路が海部氏、海部を含む海人族の故地と重なることが指摘されています1)。日本武尊の妃である宮簀媛命(みやづひめのみこと)を祀る名古屋市の氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)には、「海部氏」が神主として奉仕していますが、その海部氏は尾張氏の「別姓」であると伝えられています(『尾張国熱田太神宮縁起』)7)。したがって、吉備海部直は、吉備の尾張氏(伊福部氏)と推定されます。

 温羅伝説によると、温羅は自分のことを「百済の王子である」と名乗ったとされます。吉備津彦命に退治されたとされる温羅(うら、おんら)は、伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされ、吉備津神社の本来の主神は温羅であるという説もあります8)。本殿外陣の東北の隅には「艮御崎(うしとらおんざき)神」として温羅と弟の王丹(おに、おうに)が祀られ、西南の隅には「坤御崎(ひつじさるおんざき)神」として櫛振(くしふるが祀られていますが、久志多麻命(吉備海部直の祖)と推定されます。総社市にある御崎神社(おんざきじんじゃ)には、素盞鳴命・大国主命・少名彦名命が祀られています。

 温羅の妻は、阿曽郷(現・総社市阿曽地区)の祝の娘の阿曽媛で、阿蘇都媛と推定され、温羅が阿蘇都彦と推定されます。阿蘇氏の本姓は宇治氏で、意富氏と同祖とされるので、阿蘇都彦(温羅)は孝元天皇の子孫と推定されます。吉備の国は、大伯国(国造は吉備海部直)、上道国(国造は上道臣)、三野国(国造は三野臣)、下道国(国造は下道臣)、賀陽国(国造は香屋臣)のように分かれていました。『日本書紀』では、吉備臣の始祖を稚武彦命と記していますが、『古事記』では、大吉備津日子命(吉備津彦命)は、吉備の上つ道臣の祖で、若建吉備津日子命(稚武彦命)は、吉備の下つ道の祖としています。

 賀陽国の「かや」は、伽耶と推定されています。先代旧事本紀によると、志賀高穴穂宮天皇(成務)の時に稚武彦命の孫の建功狭日(たけいさひ)が角鹿国造となっていますが、角鹿氏は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと 任那(加羅の一部)の王族)の子孫だという説があります。『古事記』によると、蠅伊呂泥(はえいろね)と蠅伊呂杼(はえいろど)は師木県主波延(はえ)の玄孫に当たり、稚武彦命(若建吉備津日子命)の母は、蠅伊呂杼と記されています。『日本書紀』によると、慶尚北道高麗を中心とする地域に「伴跛(はえ)国」がありました9)。このことから、蠅伊呂杼は伽耶の出身と思われます。522年に伴跛国と新羅は、婚姻により同盟関係を結んだようです。記蠅伊呂泥(倭国香媛)は、『古事記』では安寧天皇の曾孫で淡路島出身なので、伴跛国とは無関係で創作されたものと推定されます。

 下道臣の祖である稚武彦命や吉備武彦の子孫で、御友別(みともわけ)の子に、三野臣の祖とされる弟彦がいますが、五百城入彦皇子(弟彦)とは別人と考えられます。仲哀天皇の4年(あるいは8年)には、秦一族の先祖の功満王(こうまんおう)が、来朝したことが『姓氏録』や『三代実録』に記載され、宝賀氏は、仲哀天皇の治世がある程度続き、伽耶の有力者が来朝する環境にあったことを意味するとしています10)。

 仲哀天皇は、即位8年に熊襲との戦いに敗れ、翌年に筑紫で崩御し、穴門豊浦宮で殯が行われました。福岡県福岡市東区香椎にある香椎宮は仲哀天皇9年に、神功皇后みずから祠を建て、仲哀天皇の神霊を祀ったのが起源とされ、香椎宮の近くの当初の行宮(仮宮)の跡が崩御の地とされています。『日本書紀』では密かに行われたとされていますが、『古事記』では、神の意志に逆らい熊襲を攻めたことにより大祓(おおはらえ)が行われたと記しています。大和王権は、熊襲の娘を手なずけて、父に酒を飲ませて酔わせ、弓の弦を切り殺害する戦法を取っていますが、日本武尊(小碓命)が出雲建を討ったやり方に似ています。

文献
1)坂本太郎 平野邦雄(監修) 1990 「日本古代氏族人名辞典 普及版」  吉川弘文館
2)井上光貞(監訳)川副武胤 佐伯有清(訳) 2003 「日本書紀Ⅰ」 中央公論新社
3)豊田有恒 2022 「ヤマトタケルの謎」 祥伝社新書
4)設楽博己 2001 「三国志がみた倭人たち」 山川出版社
5)吉村武彦 2010 「シリーズ日本古代史② ヤマト王権」 岩波書店6)日高正明 1993 「古代日向の国」 NHKブックス7)戸矢 学 2020 「スサノヲの正体」 河出書房新社
7)鈴木正信 2022 「古代氏族の系図を読み解く」 吉川弘文館
8)薬師寺慎一 2008 「考えながら歩く吉備路 上」 吉備人出版8
9)上田正昭 2013 「渡来の古代史」 角川選書
10)宝賀寿男 2008 「神功皇后と天日矛の伝承」 法令出版